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神須屋通信 #04

 2月の出来事

 私の住む大阪府は緊急事態宣言の対象地域だったから、不要不急の外出自粛が要請されている中で、不要でも不急でもない出来事が起こった。富山で入院していた、家内の生母が亡くなったのである。岸和田から富山は遠い。朝に電話を受け、いろいろと準備をして、私たち夫婦と家内の弟の三人が富山に着いたのは、もう夜だった。富山は雪だった。駅で夕食用の弁当を買い、予約をせず、飛び込みでチェックインした駅前のホテルに荷物を預けた私たちは、長年生母の後見人をお願いしていた司法書士の女性が付き添って、遺体を運び入れてくれた郊外の葬儀場を目指して、雪道をタクシーで走った。後で、富山県内でも有数だと知った、その広大な葬儀場は、夕闇の白一色の雪景色の中にあった。わずかな灯火が見えるだけで、内部に人がいるようには見えなかった。私たちがタクシーを降りた小玄関は夜には閉鎖されるようで、電話で確認した私たちは、新雪を踏んで、正面玄関に向かった。そこには、〇〇家という看板が出ていたので、ここではないと思って小玄関に回ったのだ。結局、その大きな玄関の横に葬儀場の事務所があり、出てきた係の女性が、義母を安置してある部屋に案内してくれた。むき出しの木の棺の中に横たわった義母は、それでも、たぶん、病院の看護師さんに美しく化粧をしてもらって、陳腐な表現だが、まるで眠っているように見えた。その夜、本来は禁止されているそうだが、駅から持参した弁当を食べながら、葬儀場の係員と葬儀の段取りや予算について話をした。当初は、参列者が我々三人だけだし、簡素に無宗教で送るつもりだったが、結局は、家内の希望もあり、家内の家の宗派と違うが、義母の生家の宗派も分からないので、富山でもっと多いという浄土真宗の僧侶に葬式に来て、読経をしてもらうことになった。その夜は、ホテルに戻って休息。翌日は、富山市役所に行って、義母が生前に契約してあった納骨堂への納骨の手配や年金停止の相談などに一日を費やし、さらにその翌日の朝に葬儀と火葬を終え、続いて富山市内にある納骨堂に無事に義母の遺骨を納めることができた。その詳細は書かないが、雪の富山市内をあちこちタクシーで移動する、なかなか大変な三日間だった。(大変だったのは家内とその弟で、私はただ一緒にいただけだが、)だからだろうか、火葬場でも最後の読経をしてくれた僧侶(女性の僧侶だった)の慰労の一言が記憶に残った。「お母さんは、あなたたちのために、一ヶ月、頑張ってくれたのかもしれませんね。」一ヶ月前、富山は、年取った市民も記憶にないというくらいの、史上稀な大雪に襲われ、交通網が寸断されていたのである。この数日も雪が積もったことは積もったが、一ヶ月前は、とてもこんなものではなかったという。

 家内がまだ未成年だった時に離婚して家を出た義母が、故郷の富山でまだ生きていることを突然知らされたのは、6年前のことだった。事情の詳細は分からないが、義母が老人ホームに入居する際に、新しく後見人になった人が戸籍を調べて、大阪に実子が二人いることが判明し、会う気があるかどうか連絡をくれたのだ。父親はすでに失く、母親もその年齢を考えればすでにどこかで亡くなっているのだろうと覚悟していた家内は、もちろん驚き喜んで、弟夫婦と我々夫婦の四人で富山に向かった。老人ホームは、立山連峰が遠くに望める、素晴らしく立派な施設だった。数十年ぶりに対面する親子は、最初はぎこちなかったが、すぐに打ち解けて話すことができた。しかし、今から振り返って見ると、その時の義母はすでに88歳で、認知症の兆候が出始めていたのだろう。家内や弟の前から姿を消して以来、どうして暮らしていたのかは、その後も詳しく知ることはできなかった。かろうじて分かった事は、60歳を過ぎても大阪で働き続け、陰ながら子供たちがそれぞれの家庭を築いたのを見届け、自身の老後の生活資金を確保した後で、自らの親族を頼って富山へ帰ったようである。その後、親族となにか行き違いがあって、一人で老人ホームに入ることになった。その時に、身元保証人が必要になって、戸籍を調べたという事だったのだろう。いずれにしても、私たちが富山へ行って初めて義母に対面したのは、北陸新幹線が開通する一年前で、富山駅はまだ駅舎や駅前の新築改造工事の真最中だった。

 あれから6年が経った。私たち夫婦は、年に二回、義母に面会するために富山を訪れた。それは、私たちにとっては、富山各地や金沢の観光旅行も兼ねる年中行事になった。それは、義母が人生の最後に私たち夫婦に与えてくれた贈り物の時間だったのかもしれない。私たちは、この間、富山駅周辺や市内各所の変貌ぶりを定点観測し、金沢市内の観光名所のほとんどを訪れた。その間、義母は、病状の進行とともに、最初の老人ホームから、小規模なグループホームに移り、さらに、介護専門病院に移ったのだが、働き者だった義母は、生来、強靭な体力を持っていたのだろう。94歳の天寿を全うすることになった。離婚後、女性一人で生きていくには数々の困難があったに違いない。それは、今となっては想像するしかないが、苦労や辛さだけではなく、喜びもたくさんあった人生であったことを願うばかりだ。今、義母はいなくなったが、義母が眠る富山や、この6年間ですっかり馴染みになった金沢には、これからも度々訪れることになるだろう。義母の記憶とともに。 

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