「連載第五回」 最終回
あれから五年がたった。今、家老屋敷の庭から天守を眺めながら、鼓二郎が伝蔵、お咲と三人で、ここで初めて一緒に地車囃子を聞いた日の事、そして、その十年後のあの事件の事を思い出したのは、久しぶりにここに来たからという事もあった。今は分家している鼓二郎が、生まれ育った家老屋敷に久しぶりに来たのは、兄の長男の元服を祝うためだった。それでも、あの事件の後初めてここに来たというわけではなかった。この庭をみると、あの若い頃の苦しい恋の記憶が蘇ってくる事は避けられなかった。でも、あの事件の事は忘れるようにしていたし、事実、今ではあの出来事は本当にあったのかどうかさえ、曖昧になってきていた。鼓二郎が事件の事を改めて思い出したのは、昨日着いた文と書籍のせいに違いなかった。送り主の名は上田秋成。最近刊行したばかりの小説を鼓二郎に送ってきたのである。上田秋成は本名を仙次郎という大坂の町人だった。鼓二郎が大坂の懐徳堂に通っていた時に知り合った。懐徳堂は元々は大坂の有力町人五人によって設立された私塾だったが、江戸や京都にも知られた著名な教授陣を抱え、幕府の公許も得て、江戸の昌平黌と並ぶ学問的な権威を持っていたから、鼓二郎のような武家の子弟も各地からやってきた。仙次郎もそこで学んでいた。仙次郎は富裕な商家の息子だが、もらい子だった。子供の頃に患った痘瘡のせいで手が不自由だった。そのせいか狷介な性格だった。しかし、頭は切れたし、学問も出来た。どういうわけか鼓二郎とは気があって、武士と町人という身分を越えて、時々一緒に遊んだりした。通信使の一行が来ると、日本各地から知識人を自認する人間が集まって、朝鮮の高官らに競って面会を求めた。筆談によって、詩文や画の批評を受けたり交換したりするためである。贈和と呼ばれた。自己の詩文の才能に自負を抱く仙次郎もまた贈和を希望した。鼓二郎が仲介して実現した。仙次郎は、ますます鼓二郎を信頼するようになった。
伝蔵の事件があって一年以上が経った頃である。突然、仙次郎が鼓二郎を訪ねてきた。伝蔵の事件を題材に芝居を書いたから読んでくれというのである。読んでみて、鼓二郎は驚いた。名前こそ変えてあるが、明らかに伝蔵とお咲の事が書いてあった。事件当時、お咲の存在は一切表に出ていないはずである。伝蔵も通詞仲間も、厳しい吟味の中でも、お咲の事には一言も触れなかった。それなのに、どうして仙次郎が知っているのか。鼓二郎は、誓福寺の小坊主を思い出したが、どこか他から噂を聞いたのかもしれない。それにしても、この話はどうか。もう逃げ切れないと心中を迫るお咲に対して、伝蔵は、お前のお腹にいる赤子を死なすわけにはいかない。お前は生きろ。でも、このまま一緒に捕まったら、お前も無事では済まない。私は一人で行くから、お前は、私の行き先をお上に訴え出なさい、と諭すのである。このような話は、どこから出てきたのだろう。目撃者はいるはずがないのだから、仙次郎の頭の中からとしか言いようがない。しかし、伝蔵の逮捕の直接のきっかけになった目撃情報は、確かに正体不明の女性によってもたらされたのである。鼓二郎はあまりの衝撃に、時が止まったように思った。ようやく我に戻って仙次郎に言った言葉は、言った本人にとっても意外なものだった。
「仙次郎さん、とても良く書けていると思いますよ。でも、これを貴方が出版するのは反対です。こんなものをいくら書いても、西鶴や近松の二番煎じにしかならない。仙次郎さんはもっと凄いものが書けるはずです。今まで、この国の誰も書かなかった、唐宋の小説にも負けないものが書けるはずです。どうです、この芝居、私に買い取らせてもらえませんか。」
仙次郎は金を受け取らなかったが、結局、この芝居が世間に出る事はなかった。皮肉なことに、その後、この事件を題材にした、並木正三の「世話料理鱸包丁」が歌舞伎になったが、内容は全く違うものになっていたので、鼓二郎が愁う事はなかった。昨日、上田秋成こと仙次郎が送ってきたのは「雨月物語」である。そこに、こんな内容の添え書きがあった。「あの時、貴方に諭されなかったら、今頃私はつまらない浮世草子や芝居の作者で終わっていたかもしれません。「雨月物語」こそ後世に残ると私が自負する小説です。この小説が書けたのは、全て貴方のおかげです。感謝します。」感謝するのは俺の方だと鼓二郎は思った。あの時、俺の顔色を見て、仙次郎さんは全てを悟ったに違いない。だから、あっさりと自作の公刊をやめてくれたのだ。それにしても、あのときの苦し紛れの自分の言葉が、後の傑作を生んだのだとしたら、こんなに皮肉な事はない。鼓二郎は人生の不思議を思って、しばらく庭で佇んだ。
「父上、やっぱりここにいらっしゃったんですね。母上や皆様方がお待ちです。もうすぐ祝宴が始まりますよ。」
鼓二郎は息子の言葉で我に返った。
「ああ、すぐ行く。」
だんじり囃子がまた聞こえてきた。兄は、長男の元服の祝いをわざと祭りの日に開いたのである。でないと、長男は、家老の息子という身分をわきまえず、また、町民の格好をして、だんじりの屋根に乗って踊るに違いなかった。若い頃の兄と同じだった。あの父にして息子ありだった。祝宴の会場には、その兄親子や親族に混じって、今は彼の妻となったお咲が待っていた。まだ五歳の息子の顔は、近頃めっきり伝蔵に似てきた。目を見張るような美男子だった。俺の子だ、俺とお咲きの子だ。鼓二郎は、そう自分に言いきかせながら、みんなが待つ祝宴の座敷に向かった。だんじり囃子の音がまた大きくなった。
(完)
※参考文献
池内敏「日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか」 講談社
山本博文「江戸時代を探検する」 新潮文庫
上垣外憲一「雨森芳洲」 中公新書
三宅英利「近世の日本と朝鮮」 講談社学術文庫
辛基秀「朝鮮通信使の旅日記」 PHP新書
申維翰 「海游録」 東洋文庫
田代和生 「新倭館 鎖国時代の日本町」 ゆまに書房
大谷晃一 「上田秋成」 トレヴィル
※付記:先月、参考文献でお世話になった山本博文先生が亡くなられました。私よりずっと若かったのに。ご冥福をお祈りします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?