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ダイプリの旅2 済州島

 済州島の話に入る前に、前回の長崎編で書きもらしたことを補足しておきたい。長崎港に入出港する際に、ダイヤモンド・プリンセスは三菱重工長崎造船所の近くを航行した。長崎造船所は幕末にオランダ人技師の指導のもと徳川幕府が創設したものを明治になってから三菱が引き継いだものだが、第二次大戦中に吉村昭の小説でも有名な船艦「武蔵」を建造したことでも知られている。実は、ダイヤモンド・プリンセスはこの造船所で造られた。長崎港に入ることはダイヤモンド・プリンセスにとっては里帰りでもあるのだ。姉妹船と二隻同時に建造されたのだが、建造作業中に出火事故があり、結果として三菱重工は大きな赤字を出したという。最近の三菱重工は国産旅客機やロケットの失敗などあまり良いことがないが、ひょっとしてこの事件がケチの付き始めだったのかもしれない。というところで次の目的地、済州島の話。

 済州島の南海岸、西帰浦(ソグイッポ)市にある江汀(カンジョン)クルーズターミナルに接岸したのは翌日、5月10日の午前7時だった。長崎から済州島は近い。まずは基礎知識から。済州島の広さは1845平方キロメートル、私の両親の故郷である淡路島の約3倍の広さである。沖縄本島よりも広い。島の中央部に韓国で最も標高が高いという漢拏山(ハルラ山)を抱く火山島である。人口は約66万人。こちらは淡路島の約5倍。行政区分は島の北半分が済州市、南半分が西帰浦市に分かれているが、人口は北側に集中していて、済州市は西帰浦市の二倍以上の人口を擁している。朝鮮王朝時代は流刑地だったが、今では韓国のハワイと呼ばれる観光地になっている。人口は少ないが、中文地区などリゾート施設は南側の西帰浦市の方が多い。ちなみに、私たち夫婦が住む大阪の岸和田市は人口が20万人を切っていて、西帰浦市よりも1万人ほど多いだけである。西帰浦市には、日韓W杯の時に建設された立派なサッカースタジアムがあった。

 韓流ファンの家内は、過去に友人たちと済州島を二度訪れているが、私は今回が初めてだった。まず下船してからクルーズターミナルの建物に行くまでが驚きだった。さすがに屋根と壁はついているが、長い長い突堤の上を徒歩で移動するのである。動く歩道を4回も乗り換えてようやく着いた。入国手続きをして、そこからバスに分譲する。済州島では、私たちは半日ツアーを申し込んでいた。今回訪れるのは、家内にとっても初めての所ばかりのようだった。クルーズターミナルは、西帰浦市街のかなり西にあった。そこから更に西、中文地区の手前に建つ薬泉寺が最初の目的地だった。私たちのバスのガイドはキム・オクジャという女性だった。漢字で書くと金玉子。その説明を聞いても誰も笑わなかったのは、さすがにダイヤモンド・プリンセスの乗船客は大人だと思った。

 薬泉寺は1960年創建というから新しい寺である。まことに派手な寺院だった。天井の高い極彩色の巨大な吹き抜け空間に金ピカの大きな仏像が三体。それになまめかしい極彩色の日光月光菩薩が左右にひかえる。これも金ピカの柱には立体的な龍が巻き付く。そんな柱が数本。とにかく、ここは仏教寺院というより、まるで仏教をテーマにしたテーマパークのようだった。そういえば、中国の寺もこんな感じだった。でもこれで中国や韓国の人たちの信仰をバカにしてはいけない。それはワビサビ思想に洗脳された日本人の偏見だ。奈良や京都の寺院だって、出来た当時はこんな風に金ピカだったのだ。日光の東照宮を見れば良い。ヨーロッパの宮殿を見れば良い。金箔や極彩色をありがたがるのが人間本来の感性である。笑ってはいけない。とはいえ、私はこの寺で手をあわせる気にはなれなかった。色彩の剥げ落ちた仏像や寺社建築の背後には、いままで生き残ってきた、長い長い時間の経過がある。私たちは、そんな時間に対して手を合わせるのである。

 次に向かったのは西帰浦の有名な観光地のひとつであるウェドルゲだった。孤独に立つ岩という意味だそうだ。火山噴火で溶岩が海に流れ、長い年月をかけて波が岩を浸食した。その岩のひとつが海から突き出た独立した柱のようになったものだという。修学旅行だろうか、韓国の高校生の団体も来ていて駐車場がいっぱいで、しばらくバスから降りられなかった。観察したところ、韓国では日本以上に電気自動車が普及している。それもテスラではなく現代自動車などの韓国製の車だ。それがみんなとてもデザインが格好いい。タクシーも電気自動車だった。サムソンなどによって日本の家電産業や半導体産業は韓国に敗北したが、今度は自動車産業もなんて考えたりした。

 さて、ウェドルゲ。さすがに人気の観光地だけあって、海岸べりの散歩道も青い海も奇岩の岸壁も、とても美しくて気持ちがよかった。日本なら夫婦岩のように注連縄を巻きつけそうな岩も、陽光を浴びて直立していて、なかなか格好よかった。ガイドの説明を聞いて知ったのだが、このあたりはあの懐かしい「チャングムの誓い」のロケ地になったそうだ。済州島に流刑になったチャングムが海の向こうの本国で亡くなったハン尚官さまらを偲ぶシーンだから、本来は北岸の済州市で撮影すべきだったのではないか。たぶん、この景色がとりたかったんだろう。ウェドルゲはその時のチャングムの心境を象徴しているから。

 いよいよバスは最後の目的地であるオルレ市場のある西帰浦の市街地に入った。想像以上に大きな街であることに驚いた。またまた淡路島と比較すると、洲本市よりも都会の感じだった。私たちは、イ・ジュンソプ通りというところでバスを降り、オルレ市場までガイドに引率された。かなり傾斜のある坂道をのぼる。たどり着いたオルレ市場は、大阪の黒門市場の規模をさらに大きくしたような活気のある市場だった。既に他のバスで来た観光客が溢れていた。西洋人も多い。長年大阪に住んでいて、特に広告会社のサラリーマン時代に黒門市場の販促活動にも関係していた者として、コロナ禍前の黒門市場が海外からの観光客で溢れている光景がどうしても腑に落ちなかったのだが、今回、自分が観光客の立場になってよくわかった。市場は楽しい。市場こそが観光地だ。というわけで、市場内の食堂が満席なので、私たちは観光客用に道の真ん中に多数用意されたベンチに座って、市場での立ち食いならぬ座り食いを楽しんだ。食べたのは、肉の串焼きとキンパ。おいしかった。

 市場内を少し歩いて土産物を買ったりした後、イ・ジュンソプ通りに戻った。イ・ジュンソプというのは韓国の国民的な画家の名前である。戦前の日本で美術を学び、日本で知り合った日本人女性と韓国で結婚した。朝鮮戦争の戦火を避けて済州島の西帰浦に移住したが、極貧生活のため妻子が日本に帰国。戦争中のため彼には出国が許されなかった。翌年、特別な許可を得て短い期間だけ日本への渡航が許されたが、済州島に一人で戻ってから病をえて、孤独のうちに亡くなった。作品は死後に高く評価されるようになった。このイ・ジュンソプ通りには、彼が住んだ草ぶき屋根の住居と彼の名を冠した美術館があった。私たちは集合時間までの時間を利用して、この美術館を見学した。私は知らなかったのだが、イ・ジュンソプ夫婦の物語はドラマにもなったようで、家内は彼のことをよく知っていた。作品は、そんな哀しい物語を想像させないほど力強いものだった。なお、私たちがイ・ジュンソプのかつての住まいを見物して写真を撮っていると、突然謎の女性が現れてスマホを貸せといい、私たちの写真を何枚も撮ってくれた。今回使用したのはその一枚。あの女性は美術館の学芸員だったのかな。普通のおばさんに見えたけど。

 私たちの今回の西帰浦半日観光はこれで終了。実は、今回、西浦帰に行くことが決まった時に、事前準備としてNetflixで放送されている、イ・ビョンホンなどが出演している韓国ドラマ「私たちのブルース」を観た。このドラマの舞台が西帰浦だったから。でも、残念ながら今回巡った場所は、ドラマのロケ地ではなかった。オルレ市場には期待していたのだが。あとでネットで検索すると、ドラマの撮影は西浦帰だけではなく、済州市や韓国本土でもされたという。それにしてもネットは便利ですね。どんなことでも調べることができる。

 帰宅後に司馬遼太郎「街道をゆく」の耽羅の巻を読み直した。昭和61年刊行だから37年前の旅の記録である。(面倒くさい、いい加減年号は西暦に統一して欲しいものだ。)耽羅は済州島の古称だそうだ。かつては独立国だったという。この紀行では司馬さん一行は北部の済州市を中心に回ったようで、西浦帰には少し立ち寄っただけだった。懐かしいのは、その時の旅には済州島出身であり、朝鮮近世思想史が専門の姜在彦さんが同行していたことで、私は生前の姜さんの、朝鮮通信使に関する講演を聴いたことがある。司馬さんが描いているように、朴訥な感じの大男だった。正直に言うと、李氏朝鮮時代の実学を扱った私の大学の卒業論文は姜在彦さんの著書のほとんどコピーだったと言ってもいいくらいなので、この耽羅紀行は大好きなのである。久しぶりに読みかえしてみて、済州島を舞台にしてこれだけ縦横無尽に歴史を語れるのかと、あらためて知の宝庫にして名著だと思った。もっとも「街道をゆく」全巻がそうなのだが。

 今回、帰宅後に読みかえした本がもう一冊ある。 在日の詩人、金時鐘さんの「朝鮮と日本に生きる」という自伝的回想記である。副題が「済州島から猪飼野へ」とあるように、金さんは日本の植民地時代の済州島の出身(出生地は釜山)である。今では日本でも知られるようになった、数万人が虐殺された、四・三事件の弾圧を逃れるために決死の覚悟で日本に密航して、以後在日になった。行き先は大阪。もともと済州島と大阪間には定期航路があったことから、大阪の在日韓国朝鮮人には済州島の出身者が多い。金さんは現在の済州市で育った。日本の統治下だから一人の皇国少年として育ったと自ら語る。日本の敗戦による朝鮮解放の後、済州島を含む南朝鮮は米軍の支配下に入ったが、若き金さんは全土統一をめざす共産主義運動に入り、そして弾圧されたのである。身内を殺され、自らも死にそうになった。そして、50年近くを朝鮮籍の在日として過ごしてきた金さんにある日機会が訪れた。金大中大統領の特別の配慮で故郷の済州島に行けることになったのである。故郷に住む甥や姪は金さんを暖かく迎えてくれた。これがきっかけで、金さんは韓国籍を取得することになった。というわけで、この本は在日問題に関心を持つ人には必読の文献だが、西帰浦については何の情報ももたらさなかった。ついでに書いておくと、金時鐘さんのこの本にも姜在彦さんの名前が一カ所だけ登場する。

 

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