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韓国の旅 #8


100年目のソウルと建築 2010年

 私が4度目にソウルに行ったのは、3年後の2010年のことだった。その時、妻にとっては既に10数度目のソウルだった。ソウルのどこにそんな魅力があるのと訊かれても答えに困る。時間も費用も東京に行くのと変わらないのに、紛れもない異文化を体験できるからだというのが、とりあえずの私の回答だった。妻の思いはわからないが、たぶん、女性の韓流仲間たちの存在が大きいのだろう。ソウルに行けば、とりあえず元気になれるようであるし、何度も行っていると、定点観測の楽しみも生まれる。それに、毎日のように見ている、韓国ドラマの影響も、もちろんあるに違いない。というわけで、今回のソウル行きには、さして目的はなかったのだが、まだまだ「ソウル初心者」である私が、まだ行ったことのなかった場所を、今や「ソウルの達人」になった妻に案内してもらうというのが、基本的なコンセプトとなった。私の趣味は歴史と文学と建築である。当然ながら、行きたい場所も、それらに関係したところになった。

 偶然だが、2010年は「日韓併合100周年」の年にあたっていた。私たちは、菅総理(現在の「スガ」さんではなく、当時の民主党政権の「カン」さんです。)の記念談話発表のニュースを、ソウルのホテルで聞いた。この記念すべき瞬間をソウルで過ごした事は、たぶん、長く記憶に残るだろう。菅総理は、日韓の関係を、今後の100年間を見据えた、未来志向のものにしたいと述べたようだが、北朝鮮については何も触れられなかったし、韓国との間でも、まだ過去の問題が解決したわけではない。韓国では、「日韓併合」は、あくまでも「強制」併合なのであり、法的に無効であるという主張も根強い。地下鉄の構内にまで、独島(竹島)の立体模型が展示されている現状は、日本人として、注意しないといけないだろう。何よりの問題は、日本人が、日韓を初めとする、アジアの現代史に関して、あまりに無知だという事である。前置きが長くなった。2010年のソウル3泊4日の旅のレポートを始めよう。まずは、第1日目から。

 アシアナ航空で金浦空港に着いた私たちは、今回の宿泊ホテルである「ウエスティン朝鮮」に午後2時頃に着いた。すぐにチェックイン。ホテルの部屋の窓からは、隣のロッテホテルの駐車場がよく見えた。円高の中、夏の旅行シーズンに入ったこともあって、この駐車場には、いつも観光バスが満杯だった。昔は日本人客ばかりだったが、いまでもそうなのだろうか。最近では、中国人が増えていると聞く。部屋に荷物を置いて、まずは、光化門の見物に出かけた。徒歩である。工事中の市庁舎では、光復節(日本では終戦記念日)の準備が進んでいた。今年は、等身大の人物写真のパネルを何百人分も壁に飾るという意匠のようである。市庁舎と芝生広場を挟んだ位置にあるプラザホテルは、空と雲の絵を描いた工事用パネルに、すっぽり覆われていた。11月に予定されているG20を目指して、全面改修中のようだった。今年は、同時期に、横浜でAPECが開催される予定だが、国際的な注目度では、G20が圧倒的に上だろう。


 2010年の夏は異常な暑さだったが、ソウルも暑かった。私たちは、汗をふきながら広い世宗路をゆっくりと北上した。子供達が水遊びをする清溪川を過ぎると、光化門広場が見えて来た。幅広い世宗路の中央部分6車線を壊し、地下を多目的広場、地上を噴水のある広場にしたもので、昨年の夏に完成した。ソウルの新しい観光名所である。私は、当然ながら、写真でしか知らなかったから、ぜひとも見たいと思っていたのだ。素晴らしい施設だった。道路を壊して、人々が集える、憩いの公共空間を生み出す。これは、清溪川の復元と同じ思想である。ソウルには、素晴らしい都市プランナーがいるようだ。ソウルの都市としての格は、また一段と向上した。もう、東京以上だろう。光化門広場には、以前からあった李舜臣像に加えて、世宗大王の黄金色の巨大な像が出現した。このふたつの像の背後に、これも建て直された光化門が控える光景は、国際都市ソウルを代表する景観になるだろう。光化門の背後には景福宮の宮殿群、さらにその後ろには、北岳山が聳える。見事な都市軸の完成である。

 私たちが行った時、光化門はまだ復元工事中だった。私たちがソウルを離れた後、光復節の日から一般公開された。式典の日、この光化門の前で、韓服を着た李明博大統領は、菅総理の談話を評価する記念演説をした。ちなみに、私たちのソウル滞在中に日本で放送されたイ・ビョンホン主演の韓国テレビドラマ「IRIS」では、この光化門広場が、核テロの爆発地点(もちろん、爆発はしなかった。)に設定されていた。ここで、ロケも行われたようだ。光化門の前からUターンして、また、市庁前広場に戻った。今度の目的地は徳寿宮(トクスグン)である。景福宮と昌徳宮は、以前の旅で既に見物していたが、徳寿宮はまだだった。ところが、その正門である大漢門の前まで来て、月曜日は休館であることがわかった。仕方がない、まだ開演の時間には早いが、位置的には、徳寿宮の奥にあるNANTA専用劇場へ向かう事にした。

 徳寿宮の石塀にそった石畳の並木道は、貞洞劇場やNANTA劇場へ続く美しい散歩道として有名で、トルダムキルと呼ばれている。恋人達の道でもあるらしい。数々の映画やドラマの舞台にもなった。深い木立が強い陽射しを遮ってくれて、快適だった。でも、貞洞劇場は近かったが、NANTA劇場は、道を間違えたかと思うぐらい、遠かった。ようやく着いてほっとしたところで、思いがけない事態が私たちを待っていた。現地ガイドに予約券をもらった時、貞洞のNANTA劇場だと確認したはずなのに、違ったのである。この予約券は、新しくできた明洞のNANTA劇場のものだった。家内は、窓口の人に、得意の韓国語を駆使して、ここと換えられないかと交渉したようだが、満席だということで断られた。ここで、徳寿宮が休みだったことが幸いした。タクシーで明洞に向かえば、まだ充分間に合う時間だったのである。もし、先に徳寿宮を見物していたら、とても間に合わなかった。

 さて、そんな出来事のあとにやっと見たNANTAは、どうだったか。すでにかなりの歴史を持ち、今や、ソウル観光の目玉のひとつとして世界的に有名になったショーNANTAを、今回、私たちは初めて見たわけだが、なるほど、これなら世界中の観客を熱狂させるのは無理もないと納得した。上海観光における上海雑技団の地位を、このNANTAはソウルで占めているようだ。最近では、NANTA以外のショーも注目を浴びていて、これらを目当てにソウルに来る人もいるようだ。翻って日本の事を考えてみると、東京や大阪で、世界中からやって来た老若男女の観光客を揃って楽しませるようなショーは存在するだろうか。もちろん、歌舞伎や文楽があるが、もっと敷居が低くて、予備知識がなくても気軽に楽しめる観光ソフトの開発が必要だと思った。武道ショー?忍者ショー?それとも相撲ショー?いや、アニメのコスプレショーかな。

 ソウルには、3カ所のNANTA劇場があって、それぞれの劇場で連日3公演が行われている。出演者は5人。当然ながら、いくつも演者のグループがあって、私たちが明洞で見たのは、その中のホワイトチームだった。初めてだったので、他のチームとの比較はできないが、みんな若く魅力があって、素晴らしいパフォーマンスだった。料理をテーマにしたコメディであり、打楽器による音楽ショーであり、軽業であり、ダンスでもあるショーを、見事なアンサンブルで楽しませてくれた。観客を参加させる工夫もよく出来ていた。というわけで、この、初めてのNANTA見物は、私たちを大いに満足させてくれたのである。こうして、ソウルの第一日目は終わった。


 台風4号が済州島に近づいていて、2日目のソウルは、大雨が降ったり晴れたりの、分かりにくい天気だった。朝、ホテルを出た私たちは、まず、昨日見物できなかった徳寿宮をめざした。もちろん徒歩である。市庁舎では、光復節を迎える準備が続いていた。大漢門をくぐった頃から、雨になった。雨傘の用意をしていたので、雨やどりをする観光客を尻目に、宮殿内の建物を見て歩いた。かつては広大だったそうだが、現在の徳寿宮は、こじんまりしている。昔ながらの宮殿に混じって、西洋建築が建っているのが、この徳寿宮の特徴だった。でも、残念ながら、私が一番見たかった西洋建築「石造殿」は、改修工事中だった。徳寿宮は、韓国現代史の重要な舞台となった場所である。李朝最後の王であった高宗は、その妻であった閔妃(みんび)を日本の壮士たちに惨殺された後、景福宮を脱出して、貞洞にあったロシア公使館に逃げ込むという、前代未聞の行動に出た。さすがのロシアも、1年も国王に居座られて困ったようだ。すぐ近くにある、当時は慶運宮と呼ばれていた徳寿宮に高宗が移った時には、ほっとした事だろう。今、徳寿宮にある西洋建築は、ロシア人が設計したようだが、ロシアにとっては、おやすい御用だった。ロシアは、朝鮮半島での権益を狙っていたからである。

 朝鮮半島を狙っていたのはロシアだけではなかった。日本もそうであり、長年の宗主国だった清国も黙ってはいなかった。思いがけないことに、新興の日本が、日清戦争で清国を破った。このままでは、日本の力が強くなりすぎる。そんな時に、高宗とその妻閔妃(および政治の実権を握っていた閔氏の一族)が頼ったのがロシアだった。閔妃は、そのために、日本人に殺されたのである。ロシアと日本が睨み合う中、かつての宗主国であった清国のくびきをのがれた高宗は、徳寿宮に居を構えて大韓帝国の樹立を宣言して、初代の皇帝に就任した。その著書「高宗・閔妃」の中で、朝鮮現代史の研究者である木村幹さんは、この時期が、高宗の絶頂期だったろうと述べている。しかし、頼みとしたロシアは、日露戦争で日本に敗れた。高宗に残された道は、日本の保護国になることだけだった。

 今回の私たちの宿舎である「ウエスティン朝鮮ホテル」の前身は、日本が韓国併合後に建設した西洋式の「朝鮮ホテル」だが、現在、その中庭に「円丘壇」と呼ばれる古い建物がある。実は、ここは、高宗が大韓帝国の皇帝に即位した時に建設された、祭礼の場だったのである。朝鮮総督府は、「円丘壇」の一部を壊して、ここにホテルを建設した。だから、ウエスティン朝鮮と徳寿宮は、ともに、悲劇の皇帝、高宗ゆかりの施設だったのであり、日韓併合100周年という記念すべき時に宿泊し、見学したことは、偶然とは言え、意味深いことだったと思う。それにしても、サムスン電子が日本の電機メーカーを圧倒し、G20を主催するまでに発展した、現在のソウルを見て、泉下の高宗はどう思っているだろう。高宗は、明治天皇と同じ年に生まれ、傍流の血筋から本家をついだ。まだ子供だったから、その在位の前半は、実の父親である大院君の言うがままで、大院君を追放してからは、妻の閔妃とその一族の操り人形であったと言われる。妻の死後、ようやく絶対権力者になったと思ったら、伊藤博文に首根っこをおさえられてしまった可哀想な帝王だった。そんな思いで見ると、徳寿宮という宮殿は、なかなか味わい深い場所であった。雨が降っていて、多くの施設が改修中だったのは残念だった。ここには、また来ようと思った。

 徳寿宮の見学を終えた私たちは、地下鉄に乗って、北村(ぷっちょん)に向かった。ここも私にとっては初めての場所で、今回、行くのを楽しみにしていた。なにしろ、建築や町並みを見るのが私の趣味であり、北村は、李朝時代、両班(ヤンパン=支配階級)たちが居住した、古いソウルを代表する景観だったからである。北村は、急な坂の上の町だった。はあはあ言いながら、やっとたどり着いた私たちを待っていたのは、まるでタイムマシンに乗って行ったような、懐かしい町並みだった。でも、丘の下に見えるのは、鐘路タワーなど、まぎれもなく現代のソウルなのだ。まさに、観光写真で見た光景だった。それにしても、この韓屋の建ち並ぶ異国の景観を懐かしく感じるのは何故だろう。鉄やコンクリートではなく、木や煉瓦などの、昔からある素材を使って造られた町並みだからだろうか。いや、たぶん、数十世代もの年月にわたって、確かに人々が住み継いできた、人々の暮らしの香りのようなものが、地霊として、あちこちに感じられるからなのだろうと思う。雨のせいか、そこに住んでいる人たちの姿は見えなかったが、映画のセットやテーマパークとは違う、人々が実際に住んでいる、本物の町だという感覚は確かにあった。西洋人が、京都や奈良の古い家屋に住みたがる気持ちがわかるような気がした。どんな建築様式であっても、統一感のある町並みは魅力がある。歴史の蓄積があれば、なおさら素晴らしい。急な坂の街は、特に韓国のように冬季の冷え込みの厳しい地域では、道路が凍結したりして、住むのは大変だろうと思うが、チャンスがあれば、こんなところに長期滞在してもいいなという気がした。

 北村から坂を下って、景福宮まで歩いた後、私たちは、仁寺洞や明洞、ロッテデパート、新世界デパートなど、あちこちに行ったのだが、それらは、過去のソウル旅行の時にも行ったことのある場所ばかりなので、今回のレポートでは省略して、3日目のレポートに移ろう。なお、多くの旅行者にとって、旅の大きな魅力である買い物や食事については、このレポートではほとんど触れない。これは、もともと私が、ショッピングに関心がなく、食事については、糖尿病の糖質制限食を実行していることがあって、ほとんど書く事がないせいである。昨年から糖質制限をして痛感したことは、われわれの食のいかに多くの部分が、炭水化物に負っているかという事実だった。いわゆるB級グルメと言われる料理は、ほとんどが炭水化物なのだ。幸い、韓国料理は肉や野菜が豊富だから、食べるものがないという事はなかったが、それでも、毎回の食事にはおおいに頭を悩ませたのである。特に、一緒に行った妻には苦労をかけた。韓流仲間との旅では、こんな苦労はなかったろう。次からは、旅行中に限っては、糖質制限を緩和しようかと思ったりしている。たとえ少量でも、何でも食べられた方が楽しいから。

 翌朝、つまり3日目の朝、ホテルを出た私たちは、地下鉄で東大門(トンデムン)に向かった。ショッピングの街として有名な東大門だが、今回の私たちの目的はショッピングではなかった。愛読している建築雑誌「CASA 」で知った、最新の現代建築を見に行くのである。かつて東大門には、サッカー場と野球場があったそうだが、数年前に取り壊され、そこに「東大門歴史文化公園」(東大門デザインパーク&プラザ)が建設されているのである。私がめざす建築物は、そこに建設中だった。一部は既に完成しているという。東大門には、いくつかの地下鉄駅があるが、私たちは地下鉄4号線の「東大門歴史文化公園駅」で降りた。かつてこの駅は、「東大門運動場駅」と呼ばれていた。駅のすぐ上が、建設現場だった。工事の塀にそって歩くと、建物があった。歴史文化公園のインフォメーションセンターの建物だった。内部には、数名しか先客がいなかった。みんな、観光客ではなく韓国の地元の人のようだった。そこで、映像やパネルを見物して、これが、なかなか巨大なプロジェクトであることを認識した上で、屋上にあがって、デッキから工事現場を見物した。

 まだ、鉄骨の骨組みをつくっている段階だから、完成すれば、巨大なクジラのようになるだろう建築物の姿は、まだ想像できなかった。でも、工事現場にはワクワクした。完成が楽しみだ。この建築中の建物の設計者は、かつて丹下健三や安藤忠雄が受賞し、今年は日本のSANAAの二人が受賞した、建築界のノーベル賞であるプリッカー賞を過去に女性として初めて受賞した建築家である。バクダッド出身のイギリス人、ザハ・ハディットだ。彼女の作品はあまりに過激であるため、かつては、図面だけで、実際には建設されない、アンビルドの建築家として有名な存在だった。しかし、90年代になってから、彼女の作品は、世界中で実際に建築されるようになってきた。来年完成すれば、ここは、アジアにおける、彼女の最大の作品になるだろう。(ここで注釈。いうまでもなく、ザハ・ハディットは、今や幻となった、東京の国立競技場の設計者だった。安藤忠雄さんを委員長とする、選考委員会が選んだ。世論の批判があったとはいえ、それを白紙にしたのは安倍晋三首相である。その傷心ゆえかどうかは知らないが、私と同い年だったハディットは、働き盛りの年齢で早世してしまった。現在、日本国内には、彼女の作品は存在しない。中国では、北京に、彼女が設計した巨大な空港がオープンしている。)

 さて、完成した部分はどこにあるんだろう。インフォメーションセンターを出た私たちは、さらに、工事中の塀にそって歩いた。すると、低層のくねくねしたコンクリートの建物と公園が目に入ってきた。人気はないが、さっき、誰かが入っていったような気がする。入場禁止ではなさそうなので、私たちは、公園の方に歩を進めた。なめらかな曲面を持った、生き物のような、コンクリートとガラスの建物の玄関口には、「東大門歴史博物館」という英語とハングルの表示が見えた。まだ工事中なのか、公開しているのかわからなかったが、ガラス戸の玄関の前に立ったら開いたので、恐る恐る中に入った。びっくりしたような顔をした、若い女性が出て来た。私たちが日本人だとわかると、日本語で話しかけてきた。入場無料、希望があれば展示物を案内するという。私たちは、喜んで説明してもらうことにした。この博物館は、東大門の歴史を伝えるとともに、工事中に、かつてのサッカー場や野球場の地下から出土した器物を展示するためにつくられた施設であるらしかった。パクさんという、その若くて可愛らしい女性が一生懸命説明してくれるので、私たちも、うなづきながら、熱心に見物した。他に客はいなかった。偶然入ったのに、これは素晴らしい体験だった。こんな事があるから、いきあたりばったりの個人旅行は楽しい。

 東大門から、また地下鉄に乗って、江南へ行った。私は江南は初めてだった。妻は何度も来ているが、今回行ったところは、彼女にとっても初めての場所だったらしい。新沙駅の近くにあるカロスキルという、最新流行のスポットだった。カロスというのは「街路樹」の意味らしい。キルは「通り」のことだから、カロスキルは「並木通り」ということになる。確かにここは、銀杏並木のシックな通りだった。東京で言えば、表参道から南青山あたりのような雰囲気の、お洒落な街だ。(大阪の心斎橋や堀江辺りよりはずっとお洒落。)街路の両側には、ファッショナブルな店舗が並んでいる。特に、やたらとカフェが多かった。みんな、パリのような屋外テーブル席を持っていた。通りの端から端まで歩いて、スナップ写真を何枚か撮ったが、私たちは、どの店にも入らなかった。初老の夫婦づれには、ちょっと似合わないような店ばかりだったからである。いちおう、今回は街並み見物のみ。江南の雰囲気がわかったから、それで良しとしよう。

 ついでだから、ここで、今回の旅行でも大いに利用した、地下鉄のことを書いておこう。まず気づいたのは、3年前にはまだ完全ではなかった、ホームと車体を分離するスクリーンドアーが全駅に設置されていたことだった。美観的にも安全性においても、ソウルの地下鉄は、東京や大阪をはるかに越えてしまったことになる。利便性や経済性については言うまでもない。今回、私は、初日にT-moneyというプリペイドカードを妻に買ってもらったので、毎回チケットを買う必要がなく、実に快適だった。乗り換えをうまく利用すれば、ソウル市内はほとんど地下鉄で行くことができる。難を言えば、車外の景色を楽しめない事と、それなりに、乗り換え時には歩かないといけないことだろうか。今回も、階段の昇り降りを含めて、かなりの距離を歩いた。もっと年を取れば、タクシーかバスが主になるかもしれない。それからもうひとつ、地下鉄車内での物売りは、まだ健在だったことも記録しておこう。

 地下鉄で明洞に戻って、妻が知っていた焼き肉店に入り、サムギョプサルで腹ごしらえをしてから、今度は、ソウル駅へ行った。20年ほど前、初めてソウルに来た私たちは、東京駅に似た赤煉瓦建築のソウル駅から、ガイドに見送られて、特急セマウル号で慶州へ向かった。慶州の駅では、違うガイドさんが待っていてくれた。その懐かしいソウル駅は、今、役目を終えて、改装工事中だった。なにかの記念館になるらしい。その横に、新しい、鉄とガラスの現代建築であるソウル駅があった。そのソウル駅に入った。内部は、実に巨大な空間である。無駄に大きいという気がしたくらいだ。でも、開放的ではあった。実際に、切符を買わなくても、何本もあるプラットホームを一望できる場所に行く事ができた。しばらく、二人して、駅から出発していく電車を眺めた。あと一歩で乗り遅れた、若い女性がいた。釜山行きのKTXだった。彼女は、これからどうするんだろう。駅にはドラマがあるな。そんな事を思いながら、駅を離れた。そして、駅の隣にある巨大なスーパー、ロッテマートに入り、「辛ラーメン」などを土産に買った。それから、構内の喫茶店で、少し休憩した。

 韓国の国宝第一号だった南大門(崇礼門)が、2年前に放火によって焼失した事件は、今でも記憶に生々しいが、その現場がどうなっているのか、ホテルに戻る前に、見に行くことにした。夏休みなのか、時間帯のせいか、工事現場には人気はなかったが、復元工事は既に始まっているようだ。電動工具は使わず、昔ながらの手法で、創建当初の姿の復元をめざすという。完成予定は、2012年末だそうだ。完成したら見に来よう。その時は、光化門、東大門も一緒に。


 いよいよソウルの旅も最終日である。この日も、「ソウル建築探偵」の日だった。めざすは、韓国一の名門女子大学、梨花女子大学である。例によって、市庁駅から地下鉄に乗った僕たちは、梨大駅で下車した。地下鉄駅から大学までの路は、江南のお洒落な並木道と同じような雰囲気だった。カフェやブティックが、街路樹のある道路の両側に並んでいる。夏休み中ではあるが、女子大生らしき人たちが、多く歩いていた。すらりと伸びた脚を大胆に露出したショートパンツ姿の女性が多い。ほとんどは、ロングヘアーの黒髪だった。日本に帰ってきてから、日本の若い女性達とのファッションの違いに気がついた。部外者が勝手にキャンパスを見学できるのだろうかと、内心、おどおどしながら歩いたのだが、梨花女子大学の正門は、じつに開放的だった。門は存在さえしなかった。しかも、私が見たかった建築は、キャンパスに入ってすぐに見つかった。期待を裏切らない、素晴らしい建築だった。まったく、「CASA BRUTUS」の写真の通りだった。紛れもなく、出来たばかりのピカピカの現代建築なのに、すでにして、すっかり環境に馴染んでいるのには感心した。それは、自らの存在を顕示しない、断崖に彫られた神殿のような建築だった。緑に覆われた古墳が真っ二つに割れ、その間に出来た路を下っていくと冥界に達する。そんなイメージであるが、実際には、この路の正面には巨大な階段があるのみだ。この階段を上がると、古い建築と緑の美しい、地上のキャンパスに戻る。この階段は、野外劇場の観客席ともなる。

 建物は、地下の通路の両側にあった。建物の屋上が、緑の庭園になっている。地下の路は峡谷の道と呼ばれているそうだが、僕たちは、海が分かれて出現した海底の道を歩く、モーゼのような気分で、このガラスの地下宮殿の間の道を歩いた。とても、気分が高揚した。この素晴らしい建築「梨花女子大学キャンパスセンター」を設計したのは、ドミニク・ペローである。国際的に著名なフランス人の建築家だ。ペローは、消える建築を主張する建築家として知られている。その意味では、直島に地中美術館を設計した安藤忠雄さんと似た建築哲学の持ち主と言えるだろう。このキャンパスセンターは、そんなペローの代表作になるだろうと思った。いやあ、いいものを見せてもらった。ここで、うれしい知らせがある。今年の10月に大阪の梅田に完成する、富国生命ビルが、実は、ドミニク・ペローの設計なのだ。オープン式典で、彼の姿を見る事ができるかもしれない。

 梨花女子大学で見るべき建築は、これだけでなかった。昔からある建築物の数々も、建築に興味のあるものなら、一度は巡礼する価値があるものだった。これらを設計したのはヴォーリズである。わが母校、関西学院大学や、内田樹センセイの神戸女学院などを設計した、あの、滋賀県近江八幡に本拠を持ち、日本に帰化したヴォーリズである。石造りの講堂や本部などの建築それぞれも、もちろん素晴らしかったのだが、ここで味わうべきは、建物と庭園のような緑が一体になった、キャンパス全体のたたずまいである。内田センセイなら、魂を浄化する「地霊」が住んでいると表現するだろう。このキャンパスで青春の数年間を過ごすことは、実に、うらやましい体験だ。私は男だから、資格がないのが残念である。旅行から帰ってから、発見があった。梨花女子大学は、アメリカ人の女性宣教師が基礎をつくった学校だが、その学園を「梨花学堂」と命名したのは、あの、高宗だったのである。梨花女子大学を見物して、私の今回のソウル旅行は終わった。全体として、見たい建築物を見る事ができた今回の旅は、私にとっては良い旅だった。案内人に徹した妻には感謝するしかない。日韓の歴史についての勉強は、これからも継続することにしよう。それと、旅行の前後にしっかり体調管理をして、旅行中には、少しぐらいは食事制限を緩めることができるようにしておくこと、これも、今後の私の課題である。せっかくの旅なのに、食べたいものを食べられないのは、家内にとっても、辛いことだから。

      

    

      

    

      

    

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