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仲秋跨いで

名月を広沢或いは大沢の池に映し眺めるという計画だけは、我ながらなんとも雅なものであったが、物事そう上手く行くはずなく。実際は電線の網に絡まる、いつもより割かし大きな円形を捉えるくらいが関の山であった一一

先日、セリ・ポエティク『アンドレ・ブルトン』の冒頭より三部を占める、ジャン=ルイ・ベドゥアンの評論部を読み終える。身が火照るような読感は、春先に触れた坂口安吾『FARCEに就て』と似通うところがある。

世界の変革は世界の解釈という問題と不可分な関係にある

『アンドレ・ブルトン』p.27

「・・・・・・私の印象主義的散文は、・・・・・・何よりもまず、精神を幾重にも分つ空白、観念と観念を隔てる溝にいくつもの橋を架けることを目指す。」

同 p.46

世界と我々は、ともに全体を形成する半分である

同 p.65

ひとつの作品の構造中、イメージは、言葉のかなた´ ´ ´ にあるものとの間に築かれるなんらかの交流の白熱の信号である

同 p.74

代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。(中略)単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。(中略)言葉の純粋さというものは、全く一に、言葉を駆使する精神の高低に由るものであろう。高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、之を純粋な言葉と言うべきものであろう。

『日本文化私観』
FARCEに就て p.20

兎に角芸術というものは、作品に表現された世界の中に真実の世界があるのであって、これを他にして模写せられた実物があるわけではない。その意味に於ては、芸術はたしかに創造であって、この創造ということは、芸術のスペシアリテとして捨て放すわけには行かないものだ。

同 p.23

大体人間というものは、空想と実際との食い違い・・・・の中に気息奄々として暮すところの儚い生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒な儚さのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸いにして人である、と言うようなものである、人間というものは。

同 p.24

シュルレアリスム、もう一度概論でもなんでも読んでみなければ。学生時代に美術史で自動記述の課題があって。その文面のぎこちなさは覚えている。そして安吾も上記の『日本文化一』以来開いていないことを思い出した。

さてさて、仲秋を跨ぎまして今日からは〈ニュイ・ブランシュ KYOTO〉が。ふたつみっつは回ってみたいもの。久しぶりに持ち出した『分析美学入門』より。

芸術が提示する見解のひとつの長所は、その細部ディテイルにある。そしてその細部とは、作品「世界」の豊かさと同じくらい豊かなものである。

『分析美学入門』 p.382

ああ、忘れておった。最後に、昨日の日経文化欄で見掛けた山川秀峰の《安倍野》が素敵じゃったから。鏑木清方の門下というのは、金沢で観に行った川瀬巴水とも重なる。

山川秀峰《安倍野》1928年

気分はすっかり秋一一 といいつつも、膝上のパンツを穿いているのである。

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