才能と欠点の違いがわからない

私はイヤホンのコードをよく絡ませる。放置していてもいつの間にか絡んでいる。十中八九絡ませる。夜、寝る前までiphoneで音楽を聴いて、外してベッドサイドのチェストの上に置いて、翌朝使おうと取り上げると絡まっている。たぶん全世界イヤホンコード絡ませ選手権があったら、優勝は無理だろうけど入賞はすると思う。
ところがコードをほどくのは絶望的に下手だ。傍目から見ると「岡本さんなんでイヤホンコード持って踊ってるの?」という状況になっているらしい。
何故ほどくのが下手なのか知人に分析してもらったところ「あんたは空間把握の能力が低い」と言われた。だからこのコードの先がどこと絡まっているのか認識ができないのだと。確かに思い至ることはあって、子供の頃から立方体の数を数えるような問題が絶望的にできなかった。

よく考えたら空間把握だけじゃなく、算数全般ができない。
足し算、引き算、掛け算、割り算ができない。暗算できないし、紙に書いてもしょっちゅう間違える。苦手な計算順に挙げると(最も苦手)割り算>掛け算>引き算>足し算(まあできる)という具合。
これが出来ないから、数学も式の意味や照明の公式・定理はわかるのに途中で計算ミスして回答にたどり着けない。だいたい試験には制限時間というよくわからないものが設定されているせいで、問題文の意味や解き方はわかるのに10問中1問しか解けなくて、そうすると数学は別に嫌いじゃないのに回答まで全然たどり着けないし成績は悪いしで面白くなくなる。勉強する気持ちが失せる。ますますできなくなる。こういった悪循環を生み出すので、この世から制限時間というものを消したほうが良いと思う。

話がそれた。
とりあえず、私にはできないことがいっぱいある。アホだなと思う。でも、あんまりそれを深刻に悩んでいない。これだから本当のアホである。
できないことを「どうにかしなくちゃああ」と悩むこと自体は別に悪いことではないけど(悩むことって大事だよね)、それが負担になったり無駄に努力の時間を割かなくちゃいけないなら止めたらいいよ。

中途半端にできることには私だって欲がでる。「もっと文章表現がうまくなりたい」とか「本を早く読めるようになりたい」とか。悔しいとも思う。悔しいのは、自分でも出来そうな気がしているからだ。
そう思うものについては思う存分に努力したら良い。中途半端にできることはベース(素養)があるし、「やりたい」という気持ちのプラス加減が違う。できないことをできるようにするというのは「やらなきゃ」という焦りやマイナスの気持ちが少なからずあると思う。これは精神的に結構な負担になる。
だから、全くできないものをできるようにしようとする努力に割く時間や精神力があるなら、こっちに全力を注いだほうが良いと私は思っている。

欠点も一種の才能、生まれつきのものだと考えてみる。
いやいやそれは諦めだろ、とツッコまれそうだ。まあ諦めと呼ばれてもいいんだけど、私の心持ちはもうちょっと違ってて、なんていうか「他の人が算数できるんだから別に良いじゃん」と思ってしまうんだよね。
70億人も人間がいるんだから私が何もかもできるようにならなくて良いじゃん、みたいな。私は100メートルを9秒58では走れないけど、ボルトが走れるから良いじゃん、みたいな。まあこれは極論だけど。

あと、絶望的にできないものは、できなすぎるその状況がもはや面白くなる。自分でやってて笑える。私がいつもコードほどきながらニヤニヤしているのはそのせいである。

だから私はきっとこれからもコードを絡ませまくるけど、そして私にはほどけないんだけど、その状況がもはや面白いし、世の中にはコードをほどくことに才能を発揮する人もいるだろうから、そういう人にほどいてもらえばいいのだと思っている。今日も私の脳内は平和である。〆

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