月と六文銭・第二十一章(17)
アムネシアの記憶
記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。
<前回までのあらすじ>
武田は新しいアサインメント「冷蔵庫作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
出張当日の朝、武田に同行したいと考えていた渡辺がプレゼンを持って部屋の前で待っていた。朝までかかって準備したかもしれないプレゼンを見て、武田は渡辺の同行を許可するのか?
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武田が近付くと微かに顔をしかめた。
<君はオシャレのつもりだろうが、香水の匂いがキツ過ぎる。今時の若い人は男性も肌の手入れだのに気を使うのは分かる。しかし、誰かセンスのある者に教わるといいのに>
「渡辺さん、おはよう」
「武田部長、おはようございます」
「どうしたのですか、私の部屋の前で?」
「同行の件、再考いただけないかとプレゼンを用意してお待ちしておりました」
「そうですか、お疲れ様でした。
ただ、運用戦略会議では確認プロセスを経ていないものをお客様にお見せすることがないのを君も知っていますね?
何かお客様にプレゼンするなら、運用部コンプライアンス・オフィサーの副田さんの確認を受け、私の内容確認も受け、必要な修正を施してからでないとダメなことは理解していると思いますが…」
「そこをなんとか!
せめて、部長に見ていただくことは無理でしょうか?」
「私ではなく、副田さんが知らないプレゼンはそもそも有り得ないし、副田さんのOKが取れないようなプレゼンを私が見る価値はないと思っています」
「しかし」
「渡辺さん、お客様への運用報告は若手の研修ではありません。
お客様に失礼でしょう?」
渡辺は何かを言いかけて、ぐっと飲み込んだようだった。
「私は9時30分にここを出ますので」
武田はここで渡辺がどう動くか見たかった。見込みがあれば全力でプレゼンのOKを取り付けるだろう。
段取りとしては、まず副田に時間があるか聞いて、予定を押さえる。内容もその時少し伝えておくと副田もチェックしやすい。次に、今日のテーマに沿って修正を入れ、余計なところは削除し、手元のノートを使用して口頭で伝えるようにする。全体のフォントの統一は初めから規格が決まっているので、不要なはずだが、敢えてこれを外して、目立たせるのは有りだ。最後にお客様の為になる点を再度強調するシートを挟むこと。いわばまとめの一枚だ。
<さて、渡辺君、君はどう動く?>
武田はチラッと渡辺の方を見た。
「そこに立っていてもプレゼンは良くならないと思いますが」
「はっ」
渡辺が弾かれたように武田の部屋を出て、副田に何か宣言してから、自分の机に向かった。自室の窓から見ていた武田のところに副田からの電話が入ったのはその直後だった。
「大将、時間、あります?」
「はい、あと7分ほど」
「すぐ行きます!」
何故かよく分からないが、副田は乱暴に電話の受話器を戻したように武田の部屋から見えるのだが、「ガッチャーン」という音はしないのだ。いや、したことがない。今度聞いてみないとと武田は思いながら、いつも聞くのをわすれてしまう。
「大将、いいすか?」
「はい、なんでしょう?」
「ナベ(渡辺君)がプレゼンをすぐに見てくれと言って俺の机を通り過ぎました。
結局、同行を約束されました?」
「いや、約束はしていない。
プレゼンを津軽銀行でやりたいらしい。
副将がOKしていないプレゼンは見せられないと言った」
「俺も忙しいんで、事前に言ってください。
俺が自分の仕事を優先して見なかったら、アイツ、俺を恨むでしょ?
俺が嫌な思いをするじゃないですか?」
「見なきゃいいというわけには?」
「出して来たら見てやろうとは思いますが、同行に間に合うようにアイツが出して来たら」
「間に合わなかったら、無視していいですよ」
「それはそうすが」
「私はあと2分で出発します。
新幹線で行きますので。
申し訳ないです、一応机に戻って彼の様子を見てください」
「もう間に合わないすよ」
「私から彼にメールで入れておきます。
そして、もし持ってきたら、副長の優先事務が終了したら、端からダメ出しをしてください。
最後に『このまま武田に送るけど』と言ってください。
彼が修正すると言ったら修正させてください」
「『その後は直接、大将に送っていい』って言いますよ」
「もちろんです。
ありがとうございます」
「いいですけど、甘くないですか?」
「甘いよ、だからメチャ厳しい副将に後任になってほしいって言ってるじゃないですか?」
「で、俺はそれは嫌とずっと言っていますよね?」
「言ってるから平行線なんですよ」
「ですね」
「じゃあ、後は宜しくお願いします」
武田は準備の整ったスーツケースを持って副田と一緒にオフィスを出て、鍵をかけた。中央の内部階段を軽快に降りて行って、総務の前に出た。
「用意できています!」
弾かれたように松沼が立ち上がり、ファイルが入っている書類袋を渡し、自分の机に前まで来た。驚いた秘書連中は一斉に立ち上がった。
「行ってらっしゃいませ!」
総務の女性陣の頭が一斉に下がり、社長にしたこともないようなお辞儀をした。ただ、全員が松沼に合わせただけだったのに、当然総務部長が後から問題にした。
総務、人事、IT、法人営業の各部が入っているフロアの北側の半分がそんな様子だから、秘書ではない連中は誰が出掛けるのか目で追った。
「さすが実力者、女性陣の方が誰に頭を下げるべきが分かっている」
「プロパーじゃないんですよね、あの人?」
「あれ以上は出世できなはずだが…」
<雀ども、ゴシップしてないでもっと働けよ>
武田はクビにならないプロパー連中がいつもゴシップに興じているのが嫌いだった。それもあって、運用戦略会議は外様と外人部隊をメインに組織し、稼ぎまくっていた。もちろん、引きずりおろそうとする連中、足元を掬おうとする連中はいくらでもいたが、武田のチームが稼いでいる間はプロパー出身の平泉社長でさえ下手なことが言えなかった。
外資出身の武田ならプイとやめてしまうことも有り得たし、他社に移る際についていきたいと思っていた連中もかなりいた。最近では新人のプロパー社員の中にも会社に対するロイヤリティよりも武田個人に対するロイヤリティを示す者もいた。
武田ならチームごと移る外資的転職をやるだろうと思っている者がプロパーの中にかなりいた。「去るなら去れ!」と公言するバカ者もいたが、どれだけの人的ロスになるか測れない経営センスのない連中に困っているのは武田ではなく、平泉だった。
武田とロング・ショートの松本大樹部長が稼ぎ頭であり、アキレス腱だった。二人が抜けたら、この会社はグループ会社で食ってはいけるが、飛躍などは到底無理だった。松本は職人肌で遊び心がある人間だったから、好きなことをさせてもらえている間は在籍してくれるだろうというのが平泉の読みで方針だった。
問題は武田だった。何を考えているのか分からないが、とにかく会社のために稼いでくれていた。しかも、3年に1回転職すると経歴上あるのに、ニューヨークの社長が挟まったことによりそのサイクルが狂っていて、来年転職して去ってもおかしくないタイミングになっていた。
「あ、社長、津軽銀行に行ってまいります!」
「あぁ、宜しく伝えてください。
来夏には私も挨拶に行きますので」
「はい、承知しました。
小野寺頭取は大学の同期でしたね」
「おお、そうだ、よくご存じですね」
「以前伺ったのを覚えていただけです。
それでは!」
武田は平泉に頭を下げてエレベーターホールに向かった。
平泉が総務まで来ていたのは偶然だったのだろうか?社長室からひょいと顔を出す距離じゃないはずだと武田は思いながら、右奥から2つめのエレベーターに乗った。
「ふぅ」
松沼がため息をついてドスンと椅子に腰を落とした。
「大丈夫?」
社長秘書の梨田が心配そうに声をかけた。
「武田さん、動きが激しくて、ついていくのがやっと」
「あの人が社長になったら、私は無理」
<貴方みたいなのんびり屋さんは無理に決まっているわ。本当にプロパーって暢気なものよね>
松沼が武田秘書を狙っているのは秘書課では公然の秘密だったが、常務秘書をしながら自ら志願した役目だから文句はないし、本当に武田が常務か専務になった暁には専任秘書に取り立ててほしいと以前から希望を出していた。