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月と六文銭・第二十章(01)

曲率捷径きょくりつしょうけい

 韓国大統領の訪日警備は悪夢と言わざるを得なかった。
 日韓関係が戦後最悪で、国際会議場では首脳同士はそっぽを向いて会話もしない状況だった。それがそのまま両国に報道されるものだから、ナショナリストたちは堂々と相手国への非難を繰り返していた。
 しかし、水面下で情報コミュニティ同士は協力し、要人警護に神経をすり減らしていた。内閣府内閣情報室直下に位置する対テロ特別機動部隊、別名「鈴木班」は各省庁の協力を得ながら大統領への狙撃対策を練っていた。

01
 高田準一たかだ・じゅんいちはさすがにやり過ぎではないかと思ったが、江口優作えぐち・ゆうさくはホテルの壁にネジ止めされている絵画まで外して盗聴器がないか探した。

「しばらくは管理官の部屋だから」

 江口は作業を続けた。部屋の照明、コンセント類、電話、ドライヤー、ミニバーの冷蔵庫は引っ張り出して裏側までチェックした。
 スパイ天国と揶揄される日本だったが、鈴木征四郎すずき・せいしろうの作戦がこれまで漏れたことがないのは、百パーセント信じられる部下だけで作戦を遂行してきたことが最大の要因と思われた。
 しかし、それだけでは、お金や国家と個人の信条にギャップが生じた時に任務は失敗する。洗脳するとも取れる方法を鈴木は取った。
 内閣府内閣情報室の下に鈴木はスパイ養成機関ともいえる教育システムを作り上げていた。早ければ2歳から目をつけ、幼稚園、小・中学校、高等学校、大学と教育の各ステップでガイダンスを与えながら、将来の部下を育成していた。
 最も重要な要素は、彼ら・彼女らが孤児であり、鈴木や他の教官を家族と思い、帰属意識を強く持って任務にあたることだった。その為、全国16か所の孤児院に架空の慈善団体6社・団体を通じてお金も職員も入れ、注意深く「候補者」を観察・選別した。高田と江口、そしてもう一人のチームメイト・宮城穣みやぎ・じょうは同じ孤児院の出身だった。

 日が暮れて少し経った頃、車いすの初老の男性がホテルのフロントに到着した。予約してある名前を告げ、フロントから部屋に電話を入れてもらった。中小企業の経営者とのこと、先に来ていた秘書が、迎えに降りて来た。

「高田君、ご苦労様」

 初老の男は車いすを進めながら話しかけた。

「社長、部屋の準備はできています、江口課長も到着しています」
「ありがとう、韓国からの荷に不良品が混ざってしまったみたいで、アメリカからクレームが来たと」

 高田は鈴木「社長」の車いすを押し、エレベーターが来たところで後ろ向きに車いすを引きながら乗り込んだ。
 エレベーター内、廊下では二人とも無言だった。部屋は高田がカードキーで開けた。江口はリビングルームに簡易プロジェクターをセットアップしていた。

「勇作、ありがとう」
「いえ、アジ2がすぐに翻訳をしてくれたので、準備が早く進められました」

 アジ2というのは外務省アジア局第2課のことで東アジア、つまり中国、北朝鮮、大韓民国を所管していた。
 江口はソファに座ったまま答えた。

「アジ2も知らなかったから、慌てているのだろうね」

 鈴木は車イスの方向をスクリーンが見えるように合わせた。

「穣には後で説明しておくとして、早速始めてくれ。
 そう、綾乃あやのは既に大学に通い始めているな?」
「はい、その通りです。穣には後程、私からアップデートしておきます。それでは」

 江口がスライドを切り替えて説明を始めた。
 内容は韓国の現大統領パク・ジウンの生い立ち、父で元大統領パク・チョンソ、彼の暗殺、軍部のクーデター未遂、チョン・ドアンの台頭、キム・デーユの復活、イ・スーワンの民主化運動、そして、パク・ジウンの登場をカバーしていた。ほとんど戦後の韓国の歴史そのものといえた。
 次に北朝鮮の現リーダーの台頭を説明した。

「父の代に一度、現リーダーになってから一度、重要人物が急に病死して、力のシフトが発生しています。
 父・キム・ジョンイルの時にナンバー3の中央労働委員会兵部書記のキム・ハンソルが突然引退し、公式行事から消えたことがありました。結果的に息子のキム・ソルホイが実力47番目から一気に19番目に昇進し、ジョンイルから息子キム・イースンへのバトンタッチの際には、党と軍部を取りまとめ、キム独裁への継承を成功させています。
 ソルホイの妹ヨジョンはイースンの第二婦人となりましたが、キム宗家を支えるキム三家の一つ「北家」の血を引いています。西家の雪主ソルジュは正妻との位置づけですが、産業界を牛耳っていますし、南家のジュエの父は統合参謀本部長として軍を掌握しています。
 祖父、初代のキム・イルスンの時代はともに戦った同志が国を支えてくれた。
 二代目の時は兄弟、いとこの血縁で支配を維持し、三代目は結婚を通じて盤石の体制で国を支配しています。
 しかし、このジュエとの結婚のタイミングが問題です」

 江口はキム・ソルホイの顔を映した。そして、隣にジュエの写真が並んだ。

「ソルホイは父同様ナンバー3として常にリーダー・イースンの横にいたのが、突然病気を理由に行事に出席しなくなり、約1か月後、南家のジュエが第三婦人として南の宮殿に住み始めています。
 まだ学生で軍の若手エリートの婚約者がいたといわれています」
「するとソルホイを引退に追い込んだのは何だ?
 病気か怪我か?」
「北の国内情報では軍の視察中に何らかの事故に遭ったものとされています。
 しかし、今回のこの情報では米韓共同作戦『シャーク=サンオ(鮫)』で潜入させたスナイパーがソルホイの狙撃に成功し、キム一族内でのバランスを維持するため、急遽ジュエの嫁入りが決まったと。
 韓国のスナイパーはムジゲと呼ばれ、何度か国内外で完璧なスナイプを成功させているそうです。今回の作戦を実行した工作員は北朝鮮を無事に脱出し、米国の潜水艇で回収、今はソウルで一般人として生活しているようです」
「ムジゲは単独でやったのか?
 道具ライフルは誰が供給した?
 潜入ルートは?
 いや、そもそも誰が何のためにソルホイを引退させた?」

 資料画像の最後の3枚は指示書の一部を写したものだった。サンオ作戦の許可書、レインボー(韓国語でムジゲ)投入の企画立案書、そして、責任を明確にするため4人のサインのある覚書。米韓の情報機関の責任者2人とそれぞれの軍の責任者2人の名前がはっきり読めた。

「つまり、米国も韓国もすぐ隣にある同盟国・日本に知らせず、第二次朝鮮戦争か第三次世界大戦のきっかけを作っていたということか?」

 鈴木の苦虫を噛み潰したような表情に臆せず、江口は続けた。

「残念ながら、彼らの考えでは北の南進方針が軟化すれば、半島情勢は安定するだろうというものです。来月パク韓国大統領訪日の際の北の脅威を取り除いて欲しいというのが今回の米韓の依頼です」
「大衆の前に出る機会を極力減らした上でSAT(警察強襲特殊部隊)を投入し、入国者は空港で押さえる。国会と内閣府は警視庁に任せ、我々は潜入している者をあぶり出そう。
 綾乃には大統領が講演をする予定の安政大学に潜入し、学生達の間に変な動きがないか探らせている。
 穣は千葉、日暮里、大久保によく行く運送会社にドライバーとして入っている」

 朝鮮・韓国系住人の多い大久保と日暮里は紛れ込むには都合がいい。そして、一大風俗街だった千葉市栄地区はリーマンショック後、風俗店が廃れ、代わりに朝鮮・韓国系住人が急速に増えていた。千葉の港で陸揚げされる物品を千葉市内、日暮里、大久保へと運んでいるのがブサン運輸で、宮城がドライバーとして潜入していた。
 安政大学は国際化を進めている名門私立大学で、国際経済学部は定員の8割が外国人で、欧米が半分、アジア系が半分、残り2割は日本人だが、ほぼ全員が帰国子女という構成だった。千堂は帰国子女として幾つかのクラスに出席して、友達を作った。ターゲット層とは別に、南欧からの男子学生にかなり人気だった。
 残念ながら今回は韓国・朝鮮系の学生が情報源としてターゲットだったため、千堂は日本の女学生らしい服装と化粧ではなく、K-POPダンサーのようなものにしていた。化粧、服の肩や胸元の露出、スカートの長さ、脚の露出具合、足首と靴に気を配った。ソウルに2年ほど父の仕事の関係で住んでいたので、韓国語を少し話し、ファッションにも詳しい日本女子という設定で何人かの韓国人男性と接した。今回潜入した国際学部では学生の年齢幅が広いため、千堂の年齢が少し上でも気にする者は誰もいなかった。

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