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月と六文銭・第九章(2)

 日本の対テロ対処方針は、航空機やバスのハイジャックを経て有事への備えと武力による解決が明確化されたが、犯罪者の生命をも軽視しない方針は不変だった。
 時にはこれが対応や解決を長引かせ、人質に取って心的外傷・後遺症が残る事態に発展することにもなっていた。

~メトロM線ハイジャック事件~(2)


 あの地下鉄サリン事件から10年以上が経っていたが、日本の地下鉄の対テロ対策はあまり進んでいなかった。人々はあの事件を忘れてしまったわけではなかった。しかし、局所的テロ事件だったこともあり、多くの国民には現実味が感じられなったのかもしれない。

 21世紀になって数年が経った頃、日本国内で、一度だけ地下鉄ハイジャックが成功したことがあった。

 しかし、ハイジャックの成功直後に警察の狙撃手により犯人が射殺されていた。日本の警察はハイジャック犯とは交渉しない姿勢を示したことは内外に大きなインパクトを与えた。


 11月1X日、13:15分に池袋駅を出発した東京メトロM線方南町行きH1315号列車は、東京駅を出発した直後に大型の刃物を持った男性が女性を人質にして、ハイジャックされた。

 犯人は運転席の窓を強く叩き、運転手に人質を取ったことを告げ、次の銀座駅では止まらず、霞が関駅まで運転することを要求した。

 たまたま乗っていた私服警察官が説得を試みたが、犯人が人質の女性の腿を切ったため、説得を断念した。

 犯人は警察官にすべての乗客を後ろの車両に誘導するよう命じた。

 警察官は言われた通り、乗客を全員後ろの車両に誘導し、客車間の扉を閉めた。

 運転手は本部直通の緊急信号を発信して、銀座駅で一旦停車したが、乗降扉を開けなかった。

 異常を察知したホーム駅員が運転手に駆け寄り、運転手はホーム側の窓を開け、駅員に505号が発生したと告げた。

 駅員の顔色はみるみる変わり、すぐ前の階段を駆け上がって駅長室に飛び込み、505号発生を告げた。


 車両から運転指令室に通知されていた緊急通信の確認のため、赤電話が鳴り、駅長が答えた。
「はい、確かに当駅で505号が発生しています。
 M線のH1315号です。
 はい、わかりました。
 警視庁の交渉人を待ちます」

 駅長は、駅の反対側にいる副駅長に駅内電話で505号発生を告げ、運転手に犯人の要求を聞くよう指示した。

 副駅長はホームに降りてきて、運転手に話しかけた。運転手の後ろにある窓が開かれ、ハイジャック犯はこのまま四ツ谷の駅まで運転するよう要求し、副駅長に対し、邪魔をしたら人質の女性を殺す、と喚いた。

 地下鉄メトロM線の列車をハイジャックした犯人は、地下鉄の仕組みを良く知っていたようで、ワンマン運転をするM線は、運転手をコントロール下に置くことができればハイジャックが成功すると考えていた。

 人質を取り、運転手にそれを分からせれば、その列車をコントロール下に置くことができる。あとはどこをどう走らせて、どう離脱するかは、自分次第だった。

 東京の地下には、地図に載っていないトンネルが無数あり、引込線等の使われていない線路も数十キロあった。そのどれかに逃げ込めたら、犯人は都心のどこかで地上に出ることができる。警察にとっては対応不可能な追跡劇となる可能性が高かった。


 犯人は、自分たちの乗っている気動車を残りの車両から切り離し、気動車だけ四ツ谷駅に向かわせたいと言った。

 前を行く他の列車は新宿駅よりも先に進ませ、わざと渋滞をするようなことはするなと要求した。
「四ツ谷駅まで邪魔するな。前を行く列車はもっと先まで行かせろ!」
「それはできるが、その後、どうしたいんだ?」
「お前が知る必要はない!」

 副駅長は警察の交渉専門家が来るまで時間を稼ぐよう指示されたが、犯人を刺激してしまったようで、人質のもう一方の脚を切り付け、今や両脚から血が流れている状態だった。

「出血多量でこの女が死んだらお前たちのせいだ!」と叫ぶ犯人の指示に従うしかなく、後ろの車両の切り離しに同意して、作業員を呼んだ。

「おかしなことをすると次は腹を切るぞ」と犯人が人質女性のブラウスに刃物をあてた。脚を切った際の血がブラウスに広がり、副駅長からは直接見えなかったが、運転手には腹を刺されたように見えた。
「本気です。血が広がっています」と運転手は副駅長に告げた。


 4、5分ほどして、バタバタと作業服を着た3人の保守要員が到着した。
「作業員が到着したので、後ろの車両の接続を解除する。ガタンと揺れるが、びっくりしないでくれ。私も直接、接続解除を確認して来る」と犯人に告げ、自ら連結部に向かった。

 運転手は人質の女性に大丈夫かと話しかけたが、少しずつ血を失っているのが影響し始め、顔色が悪く、唇が震えていた。

 車内の通信電話が鳴った。運転手がそれを取って、はい、はい、はいと3回繰り返した後、犯人に手を伸ばして、受話器を渡した。

「銀座駅長です。
 あなたの要求はのむ。
 人質にこれ以上危害を加えないでくれ。
 あなたの要求はこれから行く、警察の交渉係に伝えてくれ」

 その時ガタンガタンと2回車両が揺れた。副駅長が駆けてきて、運転席の窓に首を突っ込んだ。
「後ろの車両の接続を外した。
 完全に分離するには、この気動車を前に動かすか、別の気動車が来て、客車を運び去る必要がある」
「運転手、この車両を動かしてくれ。
 駅員、国会議事堂前駅の手前にあるR分岐を起動しておいてくれ」
「なぜ、それを知っている?」
「いいからやれ!
 もし、そのまま議事堂前駅に着いたら、この女がどうなるか分かってるな!」
「分かった。
 駅長にポイントの変更が必要なのを伝えるから、ちょっと待ってくれ」


 副駅長は階段を駆け上がり、駅長に犯人の要求を伝えた。
「駅長、犯人は国会議事堂前駅のR分岐を知っています。
 このままでは旧議事堂駅に到達します。
 警察に説明して、到達する前に止めないと」

 赤電話が鳴り、駅長が間髪入れずに受話器を持ち上げた。相手は鉄道本部安全・技術部長だった。
「銀座駅長、緊急対策本部を設置し、本部長である社長からの指示で警視庁に対応を依頼済みです。
 じきにそちらに到着すると思います。
 到着後、その指示に従ってください」
「はい、承知しました」
「人質と社員の安全を最優先に考えてください」
「はい、もちろんですが、旧議事堂駅に到達した場合は?」
「致し方ないと社長以下対策本部では考えています」
「よろしくお願いします。
 現場では最善を尽くします」

 ほどなくして警視庁から12名が到着した。
「駅長、警察の方が到着しました」
「すぐにこちらに案内してくれ」

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