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月と六文銭・第二十一章(12)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
 津軽銀行への出張を聞きつけた若手・渡辺が出張に同行したいと言ってきた。

12
 武田はすぅっと視線を引いて手前にあるノートパソコンの画面に戻した。
 渡辺からは見えなかったが、多分パスワードを入力しているのだろうと思い、待ってみた。
 武田はグラフが表示された画面のノートパソコンを渡辺に向けた。
 画面に表示されたグラフは大きな凸凹はないものの、小さな振幅を伴いながら、右肩上がりを続けていた。大げさに言えば長方形のグラフの領域を、青い線がまるで対角線のように横切っていた。もう一つオレンジの線があったが、それはベンチマークと呼ばれる評価の基準となる線で、平均株価であったり、目標値を表示していたりした。
 グラフを見た渡辺は目が大きくなり、視線は下がっていった。

「どうですか、このグラフ?
 こういうグラフを見たことがありますか?」

 渡辺は首を横に振った。

「君が尊敬する有資格者の誰がこんなグラフを描けますか?」

 渡辺は言葉がなく、黙って画面というよりもノートパソコンのキーボード辺りを見つめていた。

「もう一度聞いてもいいですか?
 津軽銀行は資格取り立てのファンドマネージャーに自分たちのファンドを運用してほしいと思っている理由は何だと思いますか?」
「すみません、そこまで考えておりませんでした」
「どこからそういう考えが出てきたのですか?」
「債券の大原FMが鈴木君を連れて、京都精密に出張していまして」
「出張して?」
「ヒアリングのポイントを実地に勉強したり、ファンドの概要をプレゼンしたり、いろいろさせてもらったと聞きまして」
「君はそういうことがしたいの?」
「一日でも早く戦力になりたいと考えています」
「なら、勉強をどんどんしたらいいじゃないですか?
 出張は遊びとは言いませんが、その時間は自分のファンドから離れているんですよ。
 誰かに任せている時間ができるんですよ。
 大丈夫ですか?
 渡辺さんが自分のファンドを任せてもいいと思っているのは誰ですか?」
「はぁ、そうですね。
 今回出張に一緒に行けるとしたら、金曜日一日だけですから、三枝さんにマネージしてほしいと思いまして、打診済みです」
「私に何も相談せずに、ですか?」
「え、あ」
「三枝さんは今必死にメンバーに定着しようと運用の実務も理論も勉強中ですよ。
 見て分かりませんか?
 ポート管理を押し付けて、上司に引っ付いて出張するのはちょっと違うと思うのですが」

 渡辺は額から脂汗をかいていた。残された者の苦労を考えず、自分の知的欲求を優先したような形のリクエストを武田が認めるわけがなかった。
 時期が来て、十分準備ができている者から一緒に出張に行けるのが暗黙のルールだったが、渡辺は自分が有資格者となった上、ちょうど入替えが予定されている津軽銀行のポートをフォローしていたので、出張に行くいいチャンスだと思ったのだ。

「私に言っていることが分かりますか?」
「は、はい、すみません」
「それに」

 武田の持論が頭をもたげた。

「渡辺さんは有資格者になったと言いましたが、それで明日から私のファンドを任せて大丈夫ですか?
 月締めのファンドを一つも『負け』無しで締められますか?」

 渡辺はコーナーに追い詰められたボクサーのように防戦一方だった。

「渡辺さんは私がCFAを取ったのがいつか知っていますか?
 いつから現在のファンドを任され、いつ以来『負け』無しか知っていますか?
 私のファンドが幾つあって、幾つが『勝ち』、幾つが『負け』ているかを知っていますか?
 君に任せた結果、私は来月何先に頭を下げに行かなくてはならないか、予測をしましたか?」

 渡辺は何とか答えを絞り出そうと口を開いた。

「津軽銀行の外国債券外国株ポートはニューヨークから帰国して以来ご担当されています。
 月次決算で41か月連続『負け』無しの超優良ポートです」
「褒めてくれてありがとう。
 私の資格は?
 君は今月登録したんですよね、CFA?」
「データがなく、履歴にもCVにもありません」
「ないからです」
「へ?」

 渡辺は目をかなり大きく見開き、びっくりしていた。まさか?!

「持ってないです、CFA。
 今まで必要と感じたこともないし、持っている人に負けたことないし、そもそも勉強する時間なんてなかったし。
 持っているの普通運転免許だけです、資格。
 ま、大学を卒業したのも含めたら、普通運転免許とBA、つまり学士だけです」
「本当ですか?」
「どういう意味ですか?
 資格がないとファンドマネージャーになって稼いではいけないのですか?
 ちょっと前まで誰もそんな資格持ってなかったですよ、少なくとも私よりも上の世代は『資格取ってる暇があったら実地で勉強せい』という人たちばかりで」

 渡辺が黙っているので、武田は続けた。

「持っている人もいましたよ。
 でも、持っているからって一流のファンドマネージャーになれるわけでもなく、なくても勝ち続けるファンドマネージャーなんて幾らでもいましたよ。
 いや、いますよ、だね。
 副田さんも持ってないよ。
 彼の戦績知っていますか?」
「いえ」
「私よりも連戦連勝を続けていますが、彼は日本のアナリスト資格の一番低いヤツ、なんだっけ?」
「日本証券アナリスト協会の協会資格『初級』です」
「そう、それしか持ってないと思いますよ。
 それでもあの連勝ぶり、すごくないですか?」
「確かに、すごいです」

 渡辺の戸惑いはもう収拾がつかなくなっていたので、武田は話をまとめることにした。

「君は津軽銀行が欲しいの?」
「そういう意味ではなく、勉強の機会をいただきたいと考えて青森出張の同行を許していただきたいのです」
「今の私からの指摘を受けて、それでもまだ行きたいですか?」
「はぁ」
「君の同行の申し出は正直嬉しい。
 若手はもっと積極的に勉強や実戦の機会を探して、自分から申し出ないといけないと思っています。
 資格が意味ないと言っているわけでもないですよ。
 ただ、取ったからって万能だと思わないでほしい。
 簡単な試験だと思っているわけではないですが、当社の中を見回しても、有資格者だからといって勝ち続けているファンドマネージャーは何人いますか?
 これらの答えが用意できたら、再度話に来てください」
「は、すみませんでした。
 浅はかでした」
「違う!」

 武田の剣幕に渡辺は硬くなった。この辺りはパワハラと厳しい指導の境目がblurry=霞んでいて、管理職や上司が悩んでいるところだった。武田も例外ではないが、ここは厳しく言わないと渡辺は理解できないだろうと思ったところだった。

「君に諦めろとか、浅はかだったとか、反省を促しているのではありません!
 そもそも上司の部屋に来るのに、手ぶらはあり得ないですよね?
 何か見せたいなら出力したものか、ノートPCのどちらかを持ってこないとおかしいでしょう?
 それとも、君は私と談笑したくて私の部屋に来て、無意味な発言で私の時間を無駄にしたかったのか?」

 渡辺の額からは脂汗が流れ始め、目には涙が堪り始めていた。

<う、やり過ぎた。>

 武田はついこの会社の体質に対する怒りがすぐに沸いて、口を突いてしまうのだった。
 渡辺は飲み屋でも同じだったが、再び直立不動になって、大汗を搔きながら返答をした。

「す、すみません、もっと、ちゃんと、考えてから、来ます」

 部屋の入り口まで後ずさり、頭を下げて、急いで自分の席に戻った。

<ちょっと厳しかったかなぁ>

 武田は受話器を持ち上げて、秘書課の松沼和香子まつぬま・わかこの番号を押した。

「松沼さん、お忙しいところすみません、武田です」
「部長、何でしょうか?」
「青森行き、もう一人増やす余裕はあるかな?」
「同行者がいるということですか?」
「もしかしたら」
「部長よりも上位資格者でしたら部屋割りや新幹線の席を変更しないといけませんが、そうでない場合は基本的には追加で済みます」
「ありがとう、後で連絡します」
「すみません、期限を切ってもよろしいでしょうか?」
「はい、いつですか?」
「明日の正午までとさせてください。
 先方ホテルは大手ブッキングサイトに参加しているのですが、変更の締め切りが毎日正午で今回の青森出張は明日の正午が登録変更期限となっております」
「分かりました。
 明日の午前中には結論は出ていると思います」
「はい、分かりました。
 ご連絡、お待ちしております」


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