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月と六文銭・第七章(1)

 日本に戻って3年、一つの所には長くとどまらないようにと厳しく指導を受けていた武田は、そろそろこの会社を離れようかと考え始めたところ、英国子会社への出向を打診された。
 しかも、今回は英国現地法人社長に加え、欧州統括という役員クラスの職務となるとのことだった…

~東京駅丸の内~(1)


 武田は自宅マンションのソファでくつろいでいた。前日、人事担当役員から英国駐在を打診され、しばらくはシャーロック・ホームズの生まれた地と欧州を楽しめそうだと喜んでいた。

 それとは別に、2時間ほど前、ブラックベリーに暗号メールが届いて、日本を離れて少し休んだらどうかとの連絡だった。仕事を辞めて、2年ほど充電するのも“あり”だと思ったが、勘が鈍るのはあまり望ましくないし、ロンドンならグローバルに投資が可能なのが魅力だった。

 人間、24時間戦える訳はないが、朝6時から夜10時まで見る気なら東京マーケットの14時以降から、ニューヨークマーケットがオープンしている間をカバーできる。

 その昔、英米の投資銀行がこぞってロンドンにトレーディングデスクを置いていた時期があったのはこのためだ。

 今はアジアのメインマーケットが東京から香港に移り、急速にシンガポールに移る動きが活発になっていた。東京、香港、シンガポールを一度にフォローするなら、理想的だった。

 もっとも、今や東京マーケットはニューヨークマーケットの影響を大きく受けて情勢が決まる傾向がますます強まり、ニューヨークを見ておけば大方予測できるようになってはいたが…。


 いつも装備を手配している“OTTOオットー”が珍しく任務以外の連絡をしてきたので、武田は初めてオットーに興味を持った。

「そうか、もう俺の担当範囲じゃなくなるのか。
 それでもカスタムが必要なら連絡をくれ。
 お前の癖は分かっているからね」
 そんな内容のメッセージが届いたのだ。

 職業の分類ではガンスミス、つまり銃器の調整や整備の職人となるのだろう。依然として、詳細は実は不明だったが。確かなのは、武田の任務に必要な銃器が間違いなく届くことだった。

「ところで、あなたはドイツ人か?」
 何となくドイツ人ぽい名前から聞いてみた。

 返事はしばらくなかったので、ブラックベリーの画面を閉じて、テーブルに置いた。武田は任務以外のことは連絡しない方がいいのかと思いなおして、追加で質問するのは思い留まった。

 OTTOは古いドイツ語で財産などを意味した。英語圏では武田のような要員は「アセット=資産」と呼ばれていたから、それに類似した言葉と思ったのだ。


 数日後、オットーから一旦護身用に支給されていたグロックの返却請求が届いた。プリントアウトできないのだが、PDF形式の明細一覧が添付されていて、右上に戦術的技術兵器部と書かれていて、武田は苦笑した。

 OTTO=Office of Tactical Technology and Ordinance

 さすがに漫画の読み過ぎだと自戒した。今時CIAが一人の技術者に狙撃銃のメンテナンスを任せるような体制の訳がない。偶々武田との連絡を担当している者が毎回同じだから話がつながっていただけだろう。

 ただ、試作品以外で自分が使用する狙撃銃は米軍が使用しているものと型式は一緒だが、自分の癖に合わせてあって、一度も無理な狙撃を強いられたことがなかった。

「了解、引渡場所を連絡されたし」
 武田が暗号メールを送ったら、すぐに10桁の番号が2組送られてきた。いかにも照会先のような電話番号だった。一つはニューヨークの電話番号のようで、917から始まっていた。もう一つは請求書の整理番号という感じだった。

Please call 917-451-2959 for registration.
Your reference No is 4057-53-8547.

 武田はパソコンを立ち上げ、表計算ソフトに2列の数字を上下のセルに3桁、3桁、4桁に分けて入力した。次に1セル目架ける2セル目割る3セル目の結果が4セル目に表示されるように計算させた。

 上の段は139.7658XX、下の段は35.6809XXという計算結果だった。武田は場所がだいたい分かったが、一応携帯電話の地図アプリに入力した。東京駅丸の内にある東京ステーションホテルの受付カウンターに地図ソフトのピンが落下して、“ピーン”という電子音がした。


 ステーションホテルなら、陽子と行くのがいいかな。KITTEビルの根室花正ねむろはなまさでお寿司を食べるのもいいだろうし、そう思って武田は板垣いたがき陽子ようこに木曜の晩にお食事、ステーションホテル泊を提案した。翌朝はそのまま仕事に行くので、チェックアウトの時間まで部屋でのんびりしてもいいことも伝えた。

 陽子はこの贅沢な機会を理解して喜んだ。泊まる必要がないのに、1泊8万とも10万円ともする東京のど真ん中のロケーションに行こうと誘ってくれたことに対し、すぐに返信して、喜びを表した。

 遠方への旅行の時以外は基本的に“自分の部屋でする”ことになる陽子にとって、武田との外泊は嬉しいサプライズだった。
「例のサマードレスで行きます。いただいたコーラルに髪はアップで」
「楽しみにしています」

 陽子と武田は東京駅丸の内南口で待ち合わせ、きれいになったドームをすごいねと見上げたり、皇居の入り口の門柱みたいに立っている丸ビル、新丸ビルを眺めながら、交差点を渡ってKITTEビルに入った。

 エスカレーターではなくエレベーターで5階まで上がり、根室花正に入った。北海道独特、或いは花正独自のネタを楽しみ、陽子は日本酒も少し飲んで、ほんのり赤く、ふわっとした気分だった。

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