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月と六文銭・第二十一章(05)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新卒入社6年目の土屋良子を外部研修に送り出して、そのまま出向にするつもりだと本人に告げた。願ってもない機会であることは確かだが、武田のヒドゥン・アゲンダ(秘密の計画)を知って土屋は戸惑いを隠せないでいた。
 土屋が同意しないなら1年後輩の三枝さえぐさのぞみに研修を受けさせようとまで言って同意を促した。業務命令と言って行かせることは簡単だったが、土屋が自ら手を上げて「是非、行きたい」と言ってくるよう武田は願っていた。

05
 武田は携帯電話がバイブレートしたのか、上着の胸ポケットから取り出し、画面を一瞥した後、視線を土屋に戻した。
 
「仮に君が約2年出向して戻った後、年収は今の1.4倍、若手チームの編成を行い、投資チームをリードしてもらおうと思う」
「自分の投資チームですか?」
「他にどんなのがあるの?
 君はバスケットボールのチームを作りたいと思っているのか?」
「いえ、投資チームの編成は部長や副部長がやることで、私のようなのにはまだまだ早いとしか…」
「そうか、君はかなり謙虚だね」
「自分の力量は自覚しているつもりです」
「野本の研修に行って、吸収できるものは全て吸収してくるというのはどうだ?
 戻ったら、チームを組み、君自身にはさらに大きなポートをマネージしてもらうつもりだ」
「え、嬉しいですけど、大丈夫でしょうか?
 今は三輪車に乗っている状態で、まだ補助輪付きの自転車にも乗れていません。
 まずは、先輩の指導がない状態で運用成績が挙げられるようにならないといけないと思っています」
「ほぉ、それはすばらしい心掛けだ。
 しかし、大口のファンドを運用して初めて気が付く点もいろいろありますよ」
「はぁ、そうなんですか?」

 武田がウンウン頷いていると、副田が戻ってきた。

「佳境ですか?」
「ちょうどいいところに戻られましたね。
 土屋さんは野本に行ってくれそうですので、副田さん、後は宜しくお願いします。
 私は三枝さんを口説きに行きます」

 土屋はハッとして、武田の後ろ姿に呼びかけた。

「三枝さんも行くんですか、研修?」

 武田は会社のフロア間移動を可能とする内階段を下り始めていた。
 武田のいた席に座った副田に向かって土屋はやや強い口調で問いかけた。

「副田さん、部長、本気ですか?」
「研修?出向?転職?」
「三枝さん」
「君が応じないなら、三枝さんを野本の研修に派遣して、戻ってきたら少しステップアップするのを人事に認めさせているからね、既に。
 かなり本気だと思うなぁ」
「やりそうですよね、あの人なら。
 私が行くのをOKしたのに、のぞみも行かせるんですか?」
「君たちは投資運用部のホープだからね。
 二人とも今回の野本の研修、すごくいいチャンスだと思うよ」
「そうだと思いますが、いいんですかね、こんな感じで話しちゃって?」

 副田は土屋が上司でも同僚でも友達感覚で話すのに少し違和感を覚えたものの、「今時の~」だと思って飲み込んだ。武田がやることに、いまだに時々驚く自分と比べ、もしかしたら、土屋や三枝の方が順応性が高く、波長が合うのかもしれない、とちょっと不思議に感じていた。

「で、どうする?」
「そりゃ、行きたいですよ。
 研修内容聞いたら、行かなきゃ損だってわかりますから。
 あとはのぞみが一緒に行くかですよね?」
「そうだね。
 君と三枝さんの将来を考えて、大将、下げなくていい頭を下げてきたんだ。
 というか、野本の伊藤部長、何度か大将に助けられているんだよね」
「え、どういうことですか」
「野本のミスをカバーしたんだ。
 大将のファンド、実は野本の若手が発注ミスをして、一時的に結構なマイナスを被ったんだ。
 それを6週間で埋めてたうえで利益も出し、野本のペナルティを半分にしてあげたんだ」
「それって、本来は取引停止かつ金融庁への報告が必要な」
「システムエラーってことにしたんだ。
 こんなことで若手の将来を潰すのはもったいないってことで」
「それは。
 その人どうなったんですか?」
「本来ならクビだし、上二人も腹切るかクビが飛ぶ案件だったな。
 それを穏便に済ませた」
「それって」
「君らだって、穴開けたら誰が株主に頭下げに行くのか知っているだろ?」
「はい、十分わかっています」
「大将の肩に乗っているのは飾りじゃないんだ。
 だから俺はついていくって決めたんだ」
「私ものぞみも、部長が凄い人だって分かっていますよ。
 あっちこっちに頭を下げないといけない立場なのも知っています。
 でも、副田さんや渡辺君みたいには考えられないです」
「おう、その渡辺君だけど、彼に行ってもらう案があったけど、将来土屋さんも三枝さんも債券を担当してもらいたいって意図もあって」
「やっぱり!
 債券は長く続けられるし」
「そういう面もあるね。
 まぁ、今回はチャンスだと思って、次のステップを考えてみたらいいんじゃないか?」
「はい、のぞみも行くなら、また二人で勉強します」
「おう、やってみてくれ。
 渡辺君、悔しがるぞ」
「そうですよね、そういうチャンスなんですよね、今回の話」
「そうだよ。
 それに、あの人についていったら、面白い世界が見えるかもしれないし」
「それなんですけど、何者なんですか、武田部長って?
 役人?官僚してたって言うし、NY時代はモデルと付き合ったり、ゲイの噂もあったり。
 でも、うちじゃ数少ないまともなビジネスマンで敏腕ファンドマネージャー。
 社長も一目置く中途社員で海外子会社の社長もしていたし」
「でも、それでプロパーからは煙たがられているって言いたいんだろ?」
「私の口からは言っていないですよ、そんなこと」
「おいおい、俺に言わせるな」
「でも、事実ですよね?」
「それも俺に言わせるな。
 それでなくても狭い業界、誰かが上に立てば、立てない奴はその4、5倍はいるんだ。
 社内はもちろん、社外にもポストを狙って転職する奴は幾らでもいるからな。
 大将があのポジションにいる限り、内外からあの席を狙っている連中には手に入らないってことだから」
「あれだけのことができる人もいないと思いますが」
「いや、優秀な人はいくらでもいるよ。
 あの値段であの席に座りたいかは別だ。
 多分安い」
「え、安いって、もっと貰ってもいいってことですか?」
「ああ、俺が大将なら4倍は要求する。
 そして、貰えなかったら辞めて、ほかに行く」
「そんなに…」
「だから、いつ『辞める』って言ってもおかしくないと俺は思っているし、実際、次のステップをいつも考えている様子があるし。
 君も噂を聞いているかもしれないが、今度の定期人事異動で大将を欧州統括にするのは懐柔策だ。
 ボードは大将のことを認めざるを得なくて、辞められたら困るから、前から行きたいって言っていたイギリスにってことになった」
「それで、アタシ達は?」
「君たちが戻ってきた時にちょうど大将が戻ってきて、新体制ってことだ」
「へ~、そういう狙いだったんですね」
「あぁ、言ったろ、肩に乗っているの飾りじゃないんだよ、あの人」

 武田は自分がいなくなっても生きていけるよう、実はのぞみを鍛えておきたい意図はあった。のぞみがそれに気づいているのかいないのか不明だったが、少しづつ債券に興味を持つように仕向けていた。

 階段の途中で武田は平泉ひらいずみ社長と出会い、近況について会話を交わした。
「武田部長、例の件、準備はどうですか?」
「アソシエ・フランセ・インシュアランスの件が片付きましたら、すぐに実行に移せると思います」

 背が高い平泉社長は普段人を見下ろすのに慣れているが、見下ろされるのには慣れていないようで、武田が自分に向かって上から話すのを嫌がるそぶりを見せた。

「ああ、宜しくお願いします。
 役員会で了承されれば、そのまま進められますので」

 武田は平泉が居心地悪そうなのに気付いていたが、わざと階段を下りず、そのまま会話を続けた。

「待遇・処遇は現在の英国現法社長と同じですか?
 欧州統括ならばアラワンスを上げておいた方が出張に行きやすいと思いますが」
「善処するよう人事部長に伝えておきます」
「ありがとうございます」

 武田は社長に頭を下げてお礼を言ったが、社長秘書の非礼を忘れたわけではなかった。

<平泉さんが悪いのではなく、秘書の橋本さんがセンスないんだな、秘書の。それに比べて格付け会社にいた時の小橋智子こばし・ともこはセンスが良く、スピードも速く、ストレスレスで仕事を任せられたなぁ…>


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