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月と六文銭・第二十一章(08)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店訪問を決定した。
 津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の表の仕事、そして裏の仕事の日程を固められた。
 総務部秘書課の松沼和香子まつぬま・わかこに日程確定を連絡したところ、準備していたかのように新幹線と青森セントラルホテルのコンファメーションを送ってきた。
 松沼は役員昇格間違いなしの武田の秘書になることを希望していたし、武田は松沼なら色々任せられると思っていたところだった。

08
<速い!秘書はこうでなくちゃ!専務の秘書はのんびり屋さんだし、社長秘書はポイントを外しているし、プロパーがダメだと秘書もそれに合わせてダメになるのか…>

 武田は愚痴でしかないことが分かっていたから口には出さないものの、頭の中では同じ愚痴が何度も出てきていることも分かっていた。

<ないなぁ、反応…>

 武田は田口静香たぐち・しずかからの返信がないのが少し気がかりだったが、諜報の世界では潜入作戦ならば半年も一切連絡が取れないことも珍しくないから、そういう状況だろうと一人納得して、連絡用のブラックベリーを引き出しに仕舞った。

<そういえばメカジキはどうなっているんだろう。ちゃんとポルシェを乗りこなせているだろうか?>

 メカジキというのは米中央情報局アジア部が企画した身代わり作戦のことで、武田はその中心人物をメカジキと呼んでいた。武田が中国情報部に命を狙われていることが判明してから、この身代わりを用意し、徐々に武田の生活に慣れさせ、最終的には入れ替わった後に殺される運命にある。
 武田と同じように独り身で末期の癌か家族にお金を残したいという理由で身代わりを引き受けた男性だ。多分、これまでは普通のサラリーマンだったため、財布に五十万円と五百万円まで使えるクレジットカードが入っているような生活をしたことがないだろう。
 それに本物ではないが、GT3仕様の911を与えられてそれを乗り回し、いろいろなクラブに出入りし、美女ともそれなりに楽しめているはずだ。
 本物の武田に影響がないよう、作戦担当の田口からメカジキに対し、してもいいこと、してはいけないこと、行っていい場所、ダメな場所を厳しく指導されていた。GPSで行動を監視されているものの、毎日行動を報告するよう求められていた。これまでしたことがない贅沢ができるならと、報告は怠らず、ルールは破らず、スピード違反で捕まるようなヘマはせず、きちんと身代わりを務めていた。

<本人が末期癌なのか、治療費が必要な家族がいるのか、両方か?いずれにしても、きちんとルールが守れている点、さすが田口の指導。それに車の運転は指導しなくても良いと田口が言っていたから、意外と筋がいいのかもしれない>

 もちろん、GT3に見えるよう、公道用に改造したGT2を乗りこなすのは常人には無理だったから、メカジキにはGT3仕様の911を与えてあった。ポルシェ通だと違いが分かってしまい、どこかで「武田がモドキに乗っている」との噂が出回るのを懸念して、ポルシェの集まりには行かないよう指導してあった。
 武田は元々「変なポルシェ乗り」や「ポルシェ持ち」が嫌いだったから、そういう集まりにはあまり顔を出さないでいたのが幸いした。そして、残念ながら、メカジキが運転するポルシェの助手席にはバーバリーのひざ掛けはなかった。いや、助手席に座った女性が数人はいただろうが、長い付き合いになることはないから、常に助手席に置いてある荷物などいうものはなかった。

ピピッ、ピピッ。ピピッ、ピピッ。

「はい、武田」
「武田部長、松沼です。
 青森出張の手配、すべて整いました。
 メールでイーチケットを送ってあります」
「ありがとう。
 松沼さんは本当に速いですね、仕事」
「いいえ、申請書提出と稟議が早かったので、こちらも助かりました」
「東京と違って涼しいですよね?」
「この時期ですと紅葉は始まっていませんが、外気温はだいぶ違うと思います。
 逆にジャケットをお忘れなく」
「ありがとう」

<青森のお土産って何だろう?松沼だけに買ったら問題だろうから、総務の女性全員分買うか>

 武田は気になってもう一度引き出しを開けてブラックベリーの表示を見たが、メールもショートメッセージもワッツアップの着信もなかった。そのままブラックベリーを鞄に入れ、帰宅の準備を始めた。

「武田部長、ちょっといいですか?」

 部屋の入り口に目を向けると渡辺と同期の瀬能友和せのう・ともかずが立っていた。
 武田は手で中に入って椅子に座るよう促した。
 瀬能が座ったところで、武田から会話を始めた。

「どうしました?」
「お忙しいところ恐縮ですが、この度ニューヨークに赴任の内示をいただきました。
 武田部長の前任地がニューヨークだと聞いて、事前にいろいろ教えていただけたらと思いまして」
「おめでとう、ニューヨークはエキサイティングな場所ですよ。
 金融をやるなら、ニューヨークかロンドンに一度は駐在したらいいと常に思っています。
 私は3年ほど前までニューヨークにいましたよ。
 どんなことが気になるのですか?」

 言いにくいのか、瀬能は視線を落としたままなかなか話そうとしなかったが、やっと口を開いた。

「一人で行くのと、二人でいくのとではだいぶ違いますか?」
「どういうことですか?」
「個人的なことで恐縮ですが、交際している女性がいまして、初めのうちは一人で行って、生活を整えてからその人を迎えるか、結婚して一緒に行って新生活をスタートする方がいいか、考えがまとまらなくて」
「それは二人で決めることで、一人者の私に聞かれても参考になるアドバイスができるとは思えないが」
「ニューヨークの生活にはお詳しいと思いまして、二人で初めからいって大丈夫なのか不安で。
 私だけが行って、生活が整ってから迎えた方がいいように思えているのですが、誰にも相談できず」
「そう思うならそうすればいいと思います。
 ニューヨークは結構大変だから、海外生活の経験がある奥さんだといいですが、海外が初めてとなると不安も大きいし、旦那がなかなか帰ってこないで一人で部屋に一日中いるのも嫌でしょうし、かといって東京ほど安全じゃないからフラっと一人で外に出掛けられるわけでもないから」
「それでは一人で行って生活の基盤ができたら呼ぶ方が良さそうですね。
 彼女は海外生活はしたことがない筈ですので」
「そうですか」
「話してみます。
 分かってくれると思います。
 ありがとうございます」

 瀬能は嬉しそうに立ち上がって部屋を出ていった。

<二人で、か。海外行く時はいつも一人だからなぁ>

 武田はハワイの評価センターに毎年行って、夏の休暇を利用して訓練と銃器に関する知識のアップデートを実施していた。時差ボケするとか、重要な顧客の接待も兼ねていると言っては、一緒に行きたがる恋人・三枝のぞみの希望を断っていた。
 その代わり、交際が始まってから毎年、沖縄の海に連れて行っていた。グラマラスではないものの、のぞみの健康的なビキニが可愛くて、デッキチェアから水遊びしているのぞみを眺めているのが武田の夏の楽しみになっていた。

***回想***
「ねぇ、ハワイに本当は奥さんと子供がいるとか、恋人がいるとか、そんなことは絶対ないよね?
 信じていいのよね?」
「当たり前だ。
 だいたいこんなにいつも一緒にいて、僕が他の女性に連絡を取ったり、会ってたりしたら君にすぐにバレるでしょ?
 夜、密かに奥さんや子供と電話したとしても、のぞみにはすぐに分かっちゃうよ」
「そうだけどぉ」

 のぞみは武田が女性と連絡を取っているのは分かっていた。しかし、楽しそうとか、深刻そうとかではなく、どちらかというと、ホテルの予約係との会話のようだった。奥さんや子供がいることはないと分かっているものの、毎年のハワイのことはいつか教えてくれるだろうと思って待つことにした。
 のぞみが実は安心できる理由が一つあった。武田はセックスに持ち込んで誤魔化すことはしないのだ。友人などの話を聞くと、喧嘩の後の仲直りのセックスなのか、誤魔化すためのセックスなのか、だいたいそういう状況に男性は持ち込もうとするし、女性が応じてしまうと真相が分からないままとなるのがほとんどのようだ。
 しかし、武田は一切そういうことはしない。話してくれる。声を荒げたり、手を挙げたりすることは絶対ない。これまた大人の余裕なのか、元々そういう男性なのか、英語でいうとmature=成熟していると表現される接し方なのだ。
 のぞみは武田の自分に対する対応を思い出していた。特に喧嘩した時、いや、自分としては喧嘩しているのだが、武田はいつもほぼ黙って受け止めてくれている自分の爆発を。

<どちらかというと、私がイライラしている時や不安な時に抱きしめてくれるし、ゆっくりじっくり愛を感じられるように抱き締めてくれるし、セックスも意地悪や乱暴さはなく、いつも丁寧で愛情しか感じられない。それが大人の余裕なのか、彼独特の愛情表現なのか、私の気持ちを宥める方法なのか、は分からないけど、すぐに落ち着くのは確かなのよね>
***回想終わり***


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