月と六文銭・第二十一章(10)
アムネシアの記憶
記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。
<前回までのあらすじ>
武田は新しいアサインメント「冷蔵庫作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店への訪問を決定した。津軽銀行がミーティングを快く受けてくれたおかげで武田は自分の隠された仕事の日程を固められた。
対応が早い総務部秘書課の松沼和香子は役員昇格間違いなしの武田の担当秘書になることを希望していたこともあり、とにかく反応が良い上に気が利く対応ができていた。
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「中東、米国、ロシア、中国、東南アジア」
「地域別なんですね」
松沼にはそれを言うのがやっとだった。元々アナリストではない松沼にはどうやってアナリストが仕事をするのかは分からなかったのだ。
「もちろん互いに関連はありますが、基本的には地域別に情報を整理しています」
「はい、それは分かります。
ファイルの厚さが情報量の多寡を表しているのでしょうか?」
「そうですね、欲しい情報が多いほどファイルは分厚くなってしまいますね」
「武田部長の旧東欧やロシアの予想が良く当たると私の同期が…」
「日本ではロシアの情報が少ないので、多い方が有利なのは確かですね」
「そうした情報は昔から?」
「ロシアはLTCMが破綻してからは注意深く見るようになりました。
あれは私としては大失敗でした」
「LTCM?」
「ロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)は、当時アメリカの大手投資銀行・ソロモン・ブラザーズで活躍していたジョン・メリウェザーが1994年に設立したヘッジファンドです。金融界のドリームチームと呼ばれるようなメンバーがいて、多額の資金を運用していたのですが、アジア通貨危機とロシア財政危機の影響を受けて破綻しました」
「ドリームチームって?」
「オールスターチームと言った方が分かりやすいかな。
有名人や実力者が名を連ねているチームで、LTMCの場合、ジョン・メリウェザーの他に、元FRB副議長のデビッド・マリンズやノーベル経済学賞を受賞したマイロン・ショールズがいました。ショールズはオプション理論のブラック・ショールズ・モデルのショールズその人です」
「聞いたことがあります!
そんなすごい人がいても破綻したんですか?」
「それだけ金融市場は複雑でダイナミックに動くということだと思います。
日本でも4大証券の一つ山一が破綻しましたし、都銀の一つ北海道拓殖銀行、拓銀、も山一と同じ年に破綻しています」
「それって?」
「1997年で、拓銀は11月17日に破綻しました。
その日は僕の親友の誕生日で彼は正にその破綻した拓銀に勤めていました。
山一はその1週間後の11月24日に自主廃業を決定しました。
アジア通貨危機が1997年、ロシアの財政破綻が1998年8月17日でした。
そして、LTCMが行き詰まり、財政支援を受けることになって、2000年までゆっくりと支援者に返済をしながら解体されていきました」
「それを武田部長は」
「あぁ、リアルタイムで経験した。
拓銀の同級生は預金者に『殺すゾ』と脅されたり、山一に行って羽振りが良かった同級生は家庭が崩壊しました。
確か離婚しています。
個人生活のレベルでの影響も出ましたよ」
「その時、部長は?」
「僕はまだ役所にいて、どうなるんだろうと、正直何をしていいのか分からなかった。
ただ、金融の破綻がこんなにも個人の生活に影響するものかと思って、それから個人で生き延びることを考えるようになったのが正直なところです」
「それでこんなに緻密の計算をしたり、注意深くいろいろな事件を追ったりしているのですね」
「ま、よく言えばそういうことです。
マーケットの振れに影響を受けないファンドマネージメントを目指しているという感じかな」
「私自身はあまり詳しくないので、同期からの話の受け売りでしかないのですが、部長が異常にデータ分析をされ、非常に細かい、あ、ごめんなさい」
「いいですよ」
「はい、非常に細かく情報やデータを分析されていて、我々ではどうにも追いつけないということをよく言っています」
<あれ、松沼は中途入社じゃなかったっけ?>
「あれ?
松沼さんは中途入社ですよね?
同期というのは?」
「換算同期で入社年が同じとなる不動産運用の瀬能君とか、株式の渡辺君とか、営業部にも3人ほどいます。
時々一緒に飲みに行っています」
<ほぉ、瀬能に渡辺が同期か>
「僕も中途だけど同期というのはいないから、ちょっとうらやましいなぁ」
松沼は何か言いたそうだった。この会社での武田の同期に当たる人間が何人かはいるはずだ。例えば、営業第二部次長とドキュメンテーション部公告課長の二人が換算同期で入社年が同じになるはずだが、同期と呼ぶにはレベルもランクも低過ぎて付き合いにくいのだろうと理解した。
「え?」
武田は松沼が言おうと思ったことを察した。
「あ、ごめんなさい、換算同期ならいるにはいるのですが、バックグランドが違って」
<話が合わない可能性があるのは、バックグランドが違うからじゃない。レベルが低すぎるからだと思うけど、武田はそんなことを決して言わないだろう>
松沼はちょっとだけ武田の孤独の原因を理解した。官僚として社会人生活を始め、エリート街道を驀進した後、外資で蓄えた力を発揮して上り詰めた人間にしてみたら、ぬるま湯に浸かっていい思いをしてきた大会社のカエル社員などと一緒に共有できる経験も実績もないだろうと思ったのだ。
松沼自身も転職前の会社と比べたらこの会社は楽で力を持て余してしまっている。しかし、彼女の場合、外資に飛び込んで勝負できるほどの力はないと自覚していたから、他人のことをどうこう言えないと思っていた。
「そうですね、生損保に入社して、異動してきた社員とは苦労も経験も違いますよね」
<そう取られるな、普通>
武田は心の中でため息をついた。彼にとって学校も職場もいつも競争社会だった。仲間とか友達などというのはいない。競争相手か癒してくれる相手の二種類の人間しかいない。競争相手には事欠かない。本当の意味で自分の競争相手になる者はほとんどいないが、彼らは挑んでくるので、相手をするしかない。
本当に相手になるのは外資の稼ぎ頭や欧米の同業者だけだ。
十分に自分の孤独や疲れを癒してくれられる相手もほとんどいない。欲をぶつけて発散できる相手は幾らでもいる。モデルやレースクィーン、女優の卵などは幾らでも手に入る。それらの女性を征服した瞬間は何とも言えない満足感、充足感があるのは確かだが、それとて一瞬で消え去ってしまい、最終的には満たされない。
唯一の例外は、三枝のぞみだった。いたならば娘と同じくらいの年のこの女性といる時だけが自分にとっての癒しの時間だった。彼女こそが武田の至高の相手なのだ。
のぞみからの積極的なアプローチで交際が始まった。小娘が業界の大物を口説き落とすには女性としての魅力だけでは十分ではないのは明らかだった。彼女は武田とつり合うよう努力をしてきた。社会人或いは会社人としてはマナー、知識、仕事内容、資格取得のいずれも力いっぱい努力してきた。毎年資格を取得しながら会社では昇格に必要とされる業績を確実に上げ、同期入社では毎年トップの評価を受けていた。
武田のプライベートなパートナーとしては楽しい時間を作り、ゆったりした雰囲気を作り、もちろん女性として男性の要求、いや欲求に可能な限り応えてきた。のぞみに包まれている時、安心感、安堵感があり、武田は勝ち負けの世界を忘れることができた。
松沼はいつも携帯しているメモ帳に武田からの発注を書くつもりで、4色のボールペンの黒を出して、その先端を用紙に当てていた。
「ところで、青森出張の夜は先方と会食をされますか?
ヴェニューの予約や手配が必要でしたらこちらで全て整えておきますが」
「ありがとう。
今のご時世、昔と違って接待的な会食は逆効果だろうね」
「そうですね、失礼しました」
「いやいや、青森はどうなんだろうね。
21世紀になっても関西、特に大阪方面は相変わらず手土産を持って挨拶に行くからね」
「そうなんですか?」
「そうなんだ、去年大阪の田畑支店長に注意を受けたよ、
『海外では不要かもしれませんが、ここは日本ですから』と」
「え~、関西だけじゃないですか、そんなこと?
いろいろ手配していますが、そんなの聞いたことがないです」
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