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月と六文銭・第十九章(01)

鄭衛桑間(01)

 鄭衛桑間ていえいそうかん:鄭と衛は春秋時代の王朝の名。両国の音楽は淫らなものであったため、国が滅んだとされている。桑間は衛の濮水ぼくすいのほとりの地名のこと。いん紂王ちゅうおうの作った淫靡な音楽のことも指す。

 元アナウンサーの播本優香はりもと・ゆうかとは、彼女がまだ学生だった頃、彼女の大学の部活動を通じて武田と知り合った。武田は就職活動の相談を受けたりしていたが、第一志望は金融ではなく、アナウンサーになるということで地方に移ってからは連絡がなかった。それが突然、連絡が来るようになって、やり取りをするようになった。


 業務用ノートPCのメールボックスに見慣れないアドレスからメールが届いた。送り主はYuka Harimoto=ハリモト・ユカとなっていた。

 そのメールが身代金要求型ウィルスメール=ransomware(ランサムウェア)だった場合、間違って開くとパソコンの操作ができなくなり、ransom=身代金を払わないと解除してくれなくなる。業務に支障が出るのはもちろんのこと、IT部門にも会社にも迷惑が掛かる。

 武田はやや緊張したが、会社のファイヤーウォールでの事前検査を受けているメールだということを再度確認し、メールアドレスがggmailなど他のメールサービスを装った偽サイトやサーバからのメールではなさそうだということも確かめてから、ハリモト・ユカからのメールを開いた。

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To:Tetsuya Takeda
From:Yuka Harimoto
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武田様、

ご無沙汰しております、以前金融セミナーでお世話になった
播本優香です。

しばらく広島に住んでいましたが、先月東京に戻ってきました。

今はもう金融セミナーを担当されていないのでしょうか?

良かったらまたお話をお聞かせいただきたいと思って連絡をさせて
いただきました。

播本優香
<添付:写真>
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 一応、添付されている写真の拡張子がexe等の実行ファイルではなかったので、クリックして開けてみた。

 実行ファイルの場合、ウィルスが実行され、パソコンが操作できなくなるなどの事態に発展しかねないので注意が必要だ。

 お、懐かしい!武田が米国に赴任する前に行っていた会社主催の金融セミナーに参加していた学生団体の写真だった。前列の真ん中より少し右のところにいるのが播本優香。確かアナウンサー志望で、もう一人の学生と何回か司会進行を担当していた女子学生だった。


 ハリモト・ユカではなくハリモト・ユウカ=播本優香が誰かを思い出した武田だったが、返信をして、やり取りを開始して大丈夫か?と返事をタイプし始めようとしたが手を止めた。

 今は会社のホームページに「金融基礎講座」とか、「ワンポイントニュース解説」などが掲載されているから、わざわざ自分に個人的に連絡してくるということは何か意図があるのは間違いない。

<それが何なのか、聞くだけなら一度会ってみてもいいかな>

 武田は一人で納得して、返信をタイプし始めた。

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To:Yuka Harimoto
From:Tetsuya Takeda
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播本様、

 ご無沙汰しております。広島から東京に戻られたのですね。

 弊社では毎週木曜日に「金融基礎講座」を会社サイトに掲載して
おりますので、そちらで最新の情報をご覧いただくことができます。

 現在は佃仁エコノミックス・リサーチ部長が金融講座を担当して
います。

 ご存知の通り、個別の銘柄や投資先について相談にのることは
できませんので、そちらは申し訳ありません。

武田

AGI投資投信顧問株式会社
投資運用部門債券運用部
武田哲也
Tetsuya Takeda (Mr.)
Investment Department
AGI Investments, Ltd.
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 武田は播本に返信を送信した。次のメールで播本の意図が判明するだろうと思って。すぐに返信はなく、武田もまたしばらく播本のことを忘れていた。

 現在「金融基礎講座」を担当しているのが経済調査部門「エコノミックス・リサーチ」部に在籍している佃仁つくだ・ひとし部長だった。尤も、部長とは給料に合わせて設定した役で部下のいない部付部長だった。
 以前は親会社の銀行の調査部門にいたエコノミストだったが、当時の部門長と合わず、子会社の資産運用会社に飛ばされた人物だった。そのため、この20年近く、ずっと部付で主任、課長、次長、部長を歴任してきたが、部下は一人もなく、いつも一人でリサーチをしてきた。


 業界でのあだ名は佃煮だった。佃仁(つくだ・じん)→佃二(つくだに)→佃煮(つくだに)。独特の分析は賛否両論あったが、博識、ウィットに富んでいて、やや毒舌だが、武田がこの会社では唯一まともな分析ができるリサーチャーとして尊敬していたし、グローバル・ビューについて唯一意見を求める人物だった。

<そうだ、佃煮先生に印パ国境の経済的影響を聞いてみよう>

 武田は佃に二か月に一回程マージャンに誘われるのだが、若くアグレッシブに上がるスタイルから佃からは大衆小説の登場人物「坊や哲」と呼ばれていた。しかも、時々そのまま職場でもそう呼ばれることから、武田の陰口を言いたい連中は「坊やだからさ」とアニメの人気キャラクター"赤い彗星"の名セリフを口にした。

 翌日も業務時間中に播本からの返信はなかったが、武田がオフィスを出る間際にピコンとメールアラートが鳴った。

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To:Tetsuya Takeda
From:Yuka Harimoto
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武田様、

ご返信、ありがとうございます。

会社メールでのやり取りでは個人的なことを相談しにくいので、
差し支えなかったら個人的な連絡先でのやり取りに変更を
させてもらえますでしょうか?

フッターにあります携帯電話番号にショートメッセージを送って
頂くか、ラインのQRから私のアカウントを追加してください:
<QR>

よろしくお願い致します。

播本優香
080-8x8x-x0x0
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 またしても武田の好奇心が頭をもたげ、すっと携帯電話を取り出して、画面に表示されているQRをスキャンしていた。

 ん?よく似た親子の写真がユーザーアイコンとして表示され、ユーザー登録名が「ゆーとたー」となっていた。


 これは優香が「ゆー」で「たー」が子供のことを指すのだろう、と武田は大して難しくもない推理を働かせた。播本は広島で結婚したのか、結婚して広島に行ったのか。そして、夫の転勤で、東京に戻ってきたのだろうか。しかし、それなら親子三人で写っているアイコンでも良さそうだが…。

<大学卒業と同時にアナウンサーになったようなことを聞いた気がしたが、その仕事はどうしたのだろう?>

 武田は立ち上がっていたラインの画面に、播本のアカウントを登録した、と入力して送信を意味する矢印を押した。

tt(TetsuyaTakeda):播本さん、武田です。登録しました。

 ラインでは相手が読んだことが分かる「既読」はつかなかった。忙しいのだろうと勝手に想像して、武田はラインの画面を閉じた。

 子育てで忙しいのか、その後のやり取りでは、播本からの連絡は21時以降と勤め先の昼休みの時間と思われる時間帯に来ることが多かった。
 今はシフト制の仕事だと説明されたので、ならば彼女の休みの平日にまずはランチで会おうということになり、武田は品川のニューヨーク・スタイルのオイスター・バーを予約した。

『再会第一弾』は品川でランチをして、近況を聞いた。

 播本はアナウンサーとして広島のテレビ局に就職して、地元を中心に取材等を行っていた。地場産業の取材を通じて知り合った若い経営者、と言っても10歳ほど年齢が上だったが、と交際を始めたが、広島生活3年目、交際半年ほどで、いわゆる"できちゃった婚"をした。
 しかし、自由な生活が好きな播本と地元に縛られたり、慣習等にうるさい夫とは初めから結婚生活は意見の違いが多かった。それに加えて、甘い生活の時間が短く、いきなり子供含めた3人での結婚生活となったことが上手くいかない原因となっていた。それまで女性が家のことをする環境で育った夫は全く家事・育児をせず、播本は次第に解消できない不満を溜めることとなった。やがて衝突を繰り返すこととなり、出産から1年で別居して、神奈川の実家に身を寄せていた。

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