月と六文銭・第十八章(18)
竜攘虎搏:竜が払い(攘)、虎が殴る(搏)ということで、竜と虎が激しい戦いをすること。強大な力量を持ち、実力が伯仲する二人を示す文言として竜虎に喩えられ、力量が互角の者同士が激しい戦いを繰り広げることを竜攘虎搏と表現する。
武田は恋人の三枝のぞみにニューヨークの大学事情を説明していた。日本とは進学やランキングがだいぶ違うため、実感が湧かず、話がかみ合わない分野でもあった。
そして、のぞみへのプレゼントは彼女が予想していなかったものだった…。
~竜攘虎搏~
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のぞみはもう4年近く前になる米国短期運用研修の時のことを思い出していた。
「確かに、短期留学先の生保でもNYUの方もいたけど、CUNY出身と自己紹介した方もいたわ。
本当は分からなくて、うんうん相槌打っちゃったな、あの時。
それに、ハーバードは確かにいなかったわ」
「ニューヨークの大学はウォール街に近いから、卒業生が金融に進むケースが多い。
ハーバードだと起業家になったり、親の会社を継いだりして、ウォール・ストリートに来ないケースの方が多いんじゃないかな。
実は逆も然りでウォール・ストリートの人がパートタイムで学生しているケースも多く、近くのNYUやCUNYに行っているんだよね」
「そういうことなのね」
「ああ、日本の大学進学のイメージとだいぶ違うんだよね。
大学進学率が50%程度で日本から見たら低いとなるけど、行く必要のない人はいかないから、ダメな大学はなくなるし、大学の卒業証書を持っただけの学生が大量生産される日本のシステムとは大違いだよ」
「それに、実学の場としての講義もあるから哲也さんが資産投資の講義を担当していたんでしょ?」
「ああ、本来ならゴールドウィン・マックスとかモルハン・スティンガーなどの一流投資銀行の資産運用子会社の役員がやるところ、僕が打診されて講義を担当したんだ。ついでにこの会社の宣伝もしっかりしておいたし、日本のマーケットの特殊性も説明する機会があった」
「私もニューヨークの生保の運用部で研修を受けられたから、私たちの仕事の重要性は理解できたし、その中で哲也さんの凄さも見えたわ。
良子さんも日本に戻ってから我が社のニューヨークの位置づけや哲也さんの凄さが分かったみたいだった。
今、良子さん、バリバリやってて、海外にたくさん行けて羨ましいわ」
良子というのは土屋良子のことで、のぞみの一年先輩の社員だ。武田が米国子会社にいた時にのぞみと一緒に米国での研修に参加していた。現在はオルタナティヴ投資部門で海外投資先を担当し、海外を忙しく飛び回っていた。
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「土屋さんね。
評判いいよね。
すごく頑張っているみたいだ。
ちょうどタイミングが良かったら、二人とも僕の講義に参加して、少し会社紹介してもらえばよかったかな?」
「いやぁ、あの時はまだ恥をかくだけだったと思うわ。
良子さんは私よりも研修でも上手だったから、問題はなかったかなぁ…」
「失敗をすれば成長するし、残念だけど、日本の若手はこの程度の英語しかできないって米国のライバルたちにバレちゃうけどね」
「それだと、哲也さんに恥をかかせたかもしれないよ」
「僕は全然かまわないけどね。
ちゃんとフォローもしたよ」
「それにしても、哲也さんがNYUで教えていたなんて、凄すぎて、普通の人にはその価値が分からないわよね?」
「残念ながらね。
うちの人事もその価値が分からないらしく、安政大のビジネススクールで教えられるレベルの経歴なのに、会社は常務にやらせているでしょ、安政大と国際クリスチャン大学のビジネススクールの講義?」
「やってるね。
大丈夫なのかしら?
あの人、全然ダメだから…」
「君みたいなわが社の"普通のOL"にも見えているくらいだから、相当ダメだね、あの人」
「採用の面談で会ったけど、初めから苦手なタイプだった」
「ほう、それは初耳だな」
「明確なセクハラやパワハラじゃないんだけど、メチャクチャ失礼なタイプだったよ。
私が海外志望だって話をしたら、何をもって自分がすごいのか全く理解できない根拠を示されながら延々と話を聞かされて、げんなりしたのだけは覚えているわ。
結局、親会社のお金で留学したり、海外勤務したりしていただけなのに」
「しかも、何も営業成績を残していない。
新規の大口を取ったとか、M&Aを成功させたとか、実績が全くないでしょ?
日本の大会社は若い人に海外駐在させたりするけど、箔だけ着けさせて戻すから、年を取ると老害でしかないんだ」
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「そう、うちのクォータリー・ミーティングでも『僕が海外にいた時は~』とか言うんだけど、バブルの頃の話だし、うちじゃない会社の話だし、そもそも何の実績もないのに雰囲気とかフィーリングで話されても投資判断には何も資するところがないのよね…」
「だからいつも言っているでしょ、facts and data。
使えるのこれだけですよ、のぞみさん。
フィーリングとか30年前の自分の小さな世界の経験では、我々は投資判断を変えられないよね?」
「うん、私には分かるけど、二宮君とか井原君とかウンウン頷いていて本当に嫌になっちゃうわ。
たまには哲也さんとランチに行くとか、債券の会議に参加すればレベルの違いに気が付くと思うんだけど…」
「おいおい、どうして僕がちゃんとした話を聞こうともしない連中にランチをご馳走しなくちゃいけないの?」
「え、じゃ、何?
狙っている女子しかランチに連れて行ってないってこと?」
「狙ってないよ。
ただ、少なくとも今時の若い子が何を考えているかヒアリングできるから、のぞみさんへのプレゼントとか今度行くべきレストランはハズさないでしょ?」
「それは確かに!」
二人は盛り上がって笑った。
「そういえばのぞみさん、この間『アクアテラ、可愛い!』と言ってたよね?」
「うん、哲也さんが007限定スピードマスターを見せてもらっている時に私が見せてもらったアクアテラMOPのピンク、とてもかわいくて、オメガでお揃いになるかなぁ、って思ったの」
「そうか。
まだ限定版スピードマスターは買ってないけど、君にはこれ」
武田はバッグからやや大きめな立方体を取り出して、のぞみの前に置いた。
時計のケースは場所を取るので、こういうサプライズをする時は準備が面倒だった。鞄やアタッシュケースは普段、フロントやクロークに預けるのに、「いや、自分で持ちます」などと言ったら、「絶対、怪しい!」とのぞみに言われてしまう。
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「え?え?え?
だってアレって哲也さん見てなかったでしょ?
しかも値段、私、言わなかったし。
え?」
「合ってると思うんだけど。
間違っていたら、明日、交換に行けばいいよ」
のぞみはリボンを外し、包み紙を丁寧に開け、箱の蓋をゆっくり持ち上げるようにして開けた。
実際には高級腕時計の場合、箱の機密性が高いために結構な力で引っ張らないと開かないのが実情だ。
「うわぁ、これこれ!
見てなかったのに、見てたの?
というか、多分、哲也さんの欲しいのより高いよね、これ?」
「のぞみさんは僕の方の時計の値段は見ていたの?」
「一応。
お揃いだったら、値段も同じくらいじゃないとおかしいと思ったんだけど、このピンクのすごく可愛くて、店員さんに出してもらったら、もう気に入っちゃって!」
「で、今は自分のモノだよ」
のぞみは手に持っているアクアテラの重さを確認するように二、三度上下に振ってから、ブレスレットの留めを外し、腕につけてみた。
「わ、ぴったり!
ねぇ、ぴったりよ!
すごい!」
この辺りとなると武田がいろいろと手を回して完璧を期していた。
翌日、同じ店舗に行って、"連れ"が何を見ていたか確認した。手首の寸法は普段使っている時計かブレスレットを持って行って、合わせてもらえば、同じサイズになる。今回は通年使ってもらえそうだからと冬用の革バンド、夏用のチタンブレスレットの両方を用意してもらった。
そして、のぞみの認識通り、百万円ちょっとの自分が欲しいスピードマスターに比べ、マザー・オブ・パールの文字盤のアクアテラ・コーラルピンクは百七十万円だった。替えのバンドと税金でちょうど二百二十万円のお買い上げ。
店員さんからは「お嬢様がとても喜ばれますわ」と嬉しそうに父のセンスを褒められ、ニコニコしながら、内心複雑な心境のまま、店を出たのは、のぞみには内緒だった。
前の誕生日の時、マキシム・ドゥ・フランセで「お嬢様のお誕生日に私共のレストランを選んでいただき、誠にありがとうございます」と支配人からあいさつされ、のぞみが泣きそうになって『私、帰りたい』と言い始めたものだから、今日は冗談にもこんな話はしないでおこうと心の奥底にしまった武田だった。
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