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月と六文銭・第二十一章(07)

アムネシアの記憶

 記憶とは過去の経験や取り入れた情報を一度脳内の貯蔵庫に保管し、のちにそれを思い出す機能のこと。
 武田は複雑かつ高度な計算を頭の中だけで計算できた。スーパーコンピューター並みの計算力ではあったが、それを実現するにはある程度の犠牲を伴っていた。

<前回までのあらすじ>
 武田は新しいアサインメント「冷蔵庫フリッジ作戦」に取り組むため、青森県に本拠を置く地方銀行・津軽銀行本店訪問を計画した。
 総務部秘書課の松沼和香子まつぬま・わかこに宿の手配を依頼し、日程確定後に新幹線か飛行機を手配してもらうつもりだった。
 武田は松沼が六本木コンチネンタル・ホテルでパパ活しているところを恋人ののぞみと一緒に目撃していた。相手が当時上司の桐生きりゅうだったこともあり、人事に報告せざるを得ず、謹慎処分を受けたが、その後異動した秘書課では抜群のセンスを発揮して、活躍していた。

07
 武田は田口静香たぐち・しずかからの返信を待ったが、すぐに反応がなかったので、ブラックベリーの画面を閉じて、引き出しに仕舞った。

<何か陰謀がある可能性は捨てきれないが、青森には行ったことがないから、いい経験かもしれない、行ってみよう>

 武田は車仲間とツーリングで、或いは、以前気に入っていたホステスと新幹線で仙台までは行ったことはあったが、本州ではそれよりも北には行ったことがなかった。
 南はというと、沖縄には行ったことがあるが、それは飛行機で移動したものだった。外資に勤務して日本中を出張でカバーするまでは、本州では神戸、四国では東さぬき市が一番西に行ったことがある土地だった。

<夏の東北は涼しい!東京のこの熱波を避けることができる!>

 3月から徐々に本性を現し始めたシーヴィッド19の猛威についてはまだ認識が低い状況だった。ただ高齢者や喫煙者、不摂生気味な芸能人などが健康被害を受けている程度だった。

 そこで再び武田は汚染されたワクチンを放置したらどうなるのか考えてみたのだ。実際には頭の中で数百通りのシナリオを走らせ、最も可能性の高い結論を導き出そうとしたが、その一つは必ず国政が機能不全に陥るものだった。要は予定通り国会議員に打たせて、汚染されたワクチンがどれくらい効き目があるのか知るというものだった。こっくりしている老人ホームのような状態とは言え、一応は国権の最高機関なのだから三分の一でも議席が空席となれば、政治の空白が生まれるのは必至だった。

 二つ目は戦後初めての戒厳令が敷かれ、国民が窮屈な生活を強いられるケースだ。商業は停滞、経済は落ち込み、国力は急ピッチで低下していくだろう。しかも、ワクチン接種が強制され、接種しない者は公共の場から強制的に排除されるシナリオだ。ペストの時のような対応となるか。しかし、体質に合わないとか、アレルギー反応が出てしまう人はどうしたらいいのだろうか。

 三つめはインフルエンザのような季節的な流行を起こす病原体として、冬を越せば無関係になるケースだ。秋口に予防接種しておけば冬を越せるような者であれば、ワクチンの確保さえできればコントロールできそうだ。ワクチンの確保、いや、その前提としてのワクチンの生産体制の構築が課題だ。こういう場面でこそ、政府が助成金を出して、生産設備の整備を支援すべきだろう。変に個別企業や業種に助成金を出すと不平等だし、不正をする連中がいくらでもいるから、真面目に商売に取り組んで苦労している人たちがいる半面、助成金を貰って遊んでいる連中が相当数発生するだろう。どこまで行っても不公平はなくならなということか。

<いや、ちょっと待て、もしこれが何らかのコントロールされた事故だとしたら、本物のテロか革命の兆しになるのではないか?>

 武田はこのシナリオについて変数を増やしながら、シミュレータした。フランスならどの程度の罹患者数でゼネストに突入するか、米国ではどれくらいの人口が感染すると暴動になるのか、懸命に考えた。
 日本での暴動というと、米一揆と一向一揆くらいしか思い浮かばないが、外国は年がら年中ゼネストをやっているイメージだった。フランスのゼネストは中央官庁の機能まで麻痺するから偶々旅行に行った人間は大変な目に遭ってしまう。

 国権の最高機関も行政の中心機関も重要だが、こういった状況では政治家よりも官僚の対応の遅れが日本を危機に直面させるから、霞が関の各省庁のワクチン接種時期が問題だ。

 厚生労働省に潜入していた田口静香が何か知っているかもしれない。武田は再度引き出しの鍵を開け、例のブラックベリーで田口に暗号化されたメッセージを送った。

<あれ?まだ前のを開けてない>

 田口が潜入捜査で返信できないこともあるとは思ったが、犯罪組織と違い、公官庁ならばメールくらい確認できる時間はあるはずだが…。

<こういう時は武器の担当のOTTOよりも米大使館にいるジョン、あの経済分析官ジョン・デイヴィッド・コーヘンの方が良いだろう>

 武田はこうしたシナリオが考えられないかとジョンに送り、ジョンからは本部に伝えてみるとすぐに返信があった。シズカ(田口静香)のことには何も言及しなかったし、言及もなかった。

<それにしてもジョン・デイヴィッド・コーヘンとは人を馬鹿にした名前だ。イギリスとユダヤ人の歴史を知らない者にはただの名前だが、元々「デイヴィッド・コーヘン」とはユダヤ人の「名無しの権兵衛」に相当する呼び名で、身元不明のユダヤ人の死体やユダヤ人の容疑者につける仮名だ。それを名乗って堂々と活動しているということは、米中央政府もCIAもユダヤ人に中枢を握られているということだろう。カストロ暗殺もカダフィ暗殺もデイヴィッド・コーヘンという名の特別管理官が作戦責任者だった。同じ人物であるはずがない。コーヘンは何人もいるのか、何代もいるのか、作戦担当者のシンボルなのか>

 またしても数分待ってみたが、ジョンからはそれ以上の情報はなく、田口からの連絡も反応もない。

<DCA(ディープカバーアサインメント)かな>

 潜入捜査はUCA=アンダーカバーアサインメントと呼ばれ、身分を偽って企業や公官庁などに潜入する。職員になったり、患者や出入り業者になったりする。

 ところが、「ディープカバーアサインメント」となると身分を偽るだけにとどまらず、その偽の身分の経歴なども作り込んである「レジェンド」を使い、犯罪者組織に潜入して、行動を共にして、動向を探ったりする。ここが潜入捜査の難しいところで、麻薬や銃器を扱ったり、使用したり、どこまでの行為・行動が現行法の範囲内で許されるのか、絶えず問題となっている場面に直面する。

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