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月と六文銭・第七章(3)

 武田は東京ステーションホテルでレースクイーンの板垣いたがき陽子ようこと楽しいひと時を過ごした翌朝、大阪に向かった。

~大阪騒擾~


 武田は預けたアタッシュケースをフロントで受取り、最短の経路で新幹線ホームに上がり、こだまに乗り込んだ。静岡の顧客とのアポがあるということにしていた。

 こだまのグリーン車には他の客はいなくて、武田はアタッシュケースの中身を確認した。返却予定の護身用のグロックはマガジンとともに緩衝材ごとなくなっていた。代わりにタブレットと指示書が入っていた。

 事前にメールで今回のアサインメントの概要は伝えられていたが、詳細とターゲットの情報はこのアタッシュケースに入れて届けられた。武田はそういった情報がホテルの部屋に置いてあるのが嫌だったので、OTTOにお願いして、拳銃の返却もドスィエ(詳細情報)の授受もホテルのフロントにアタッシュケースを預けた時にやっておくようにしていた。

 フロント係の一人か保管庫の係が組織の関係者でアタッシュケースごと差し替えたのか、グロックを取り出し、タブレットを入れたのだろう。

 せっかくのこだまのグリーン車なのに、それを楽しむ時間もなく、武田はタブレットに保管されていたデータに目を通した。すべてのデータを頭に叩き込んだところで、タブレットのデータを消去した。

 指示書には開封パスワードとして6桁の数字が書かれていたが、実は消去用のパスワードだった。万一紛失や盗難、或いは警察の押収などににあった時に、開けようと思ってそのパスワードを入力するとデータが消えてしまうのだ。

 新横浜でこだまを降りて、一旦トイレの個室に入って指示書を若干破いて細かくしてトイレに流した。再びホームへと向かい、次に来たのぞみに乗車した。

 再びグリーン車の快適なシートに座ったものの、先ほどのこだまとは比べ物にならないくらいのぞみのグリーン車は騒がしく、武田はイヤホンを付け、本を読むことにした。

 そういえば、昔は「読後焼却」と言って、他の手に渡らないように書類を焼いていたが、今車内やトイレでそんなことをしたら警報が鳴って大騒ぎになってしまう。

 諜報の世界も世の動向に合わせて、移動中に渡される「読後焼却」書類は、タブレットに格納され、「読後消去」される方式に変わっていた。指示書はA4サイズ1枚で、トイレに流したら分解される種類の紙に印刷されていたので、これも比較的簡単に処理できるものだった。


 陽子がゆっくりチェックアウトして帰宅すると、大阪での交通混乱のニュースが流れていた。

 哲也さんは静岡だから影響を受けてないよね。新幹線は影響を受けるのかなぁ…。

 その日、大阪では大規模な交通渋滞があって、その影響で地下鉄御堂筋線が麻痺し、集中した人で将棋倒しが発生、多数の怪我人が出た。

 心臓麻痺で病院搬送中の衆議院議員佐藤茂雄が亡くなったほか、中之島商事の会長も救急車の中で病院に到着しないまま帰らぬ人となった。

 佐藤は衆議院財務委員会副議長だったが、元は防衛族、自衛隊の装備近代化を進めてきた中心人物だった。

 中之島商事は、現会長がまだ事業部長だった時代の悲願だった人工衛星ビジネスが動き出し、先月インドネシアとロケット打ち上げ基地の用地使用契約が締結されたばかりだった。

 ニュースでは『日の丸通信衛星ビジネス、テイクオフ!』とポジティブだったが、商用衛星や宇宙通信網を独占している米欧にとっては嬉しくないニュースのようだった。

 自衛隊、特に陸上自衛隊の通信アップグレードの骨格を成すはずの宇宙通信網整備にブレーキがかかることになりそうだった。

 これまでも日本製戦闘機開発、大型旅客機開発、多元監視艦隊群構想(イージスのようなシステム)、早期飛行体迎撃構想(ミサイル防衛網)など、日本が一歩リードしそうになると米国は邪魔をしてきたと言われている。


 静岡のお土産を持って品川駅に降り立った武田は若干気になる女性が視野の右端に動いて視野から逃れようとしているのが見えた。

 スラっとモデルのようなスタイル、周囲への気の配り方、ジャケットの下に何か隠しているような膨らみも怪しかった。

 アジア系だが、日本人が着ない体にぴったりの服、韓国系なら明るい化粧だが、若干やぼったい上に、髪が漆黒。中国人か中華系アジア人。何故視野から逃れようとしたのか?武田は横須賀線に向かわず、通路の反対側、逆方向の山手線に乗って、新宿を目指した。

 武田はブラックベリーに“tko-red-chun-li”と入力しOSP宛てに暗号メールを送った。

“chun-li”(チュンリー)とは有名なビデオゲーム『ストリート・ファイツ』に登場する中国女性の戦士で、欧米では普通名詞のように通じる言葉だった。ニンジャみたいに欧米に取り込まれて着した言葉の一つだった。

 ほとんど平文の通信だったが、クローズドネットワークだったので、外部からは覗き見されていない前提だった。

「東京には敵側の女性工作員はいるか」という内容だった。

 ゲーム上のデータでチュンリーは1968年3月1日生まれ、身長170cmバスト88cmウエスト58cmヒップ90cm、或いは身長169cmバスト84cmウエスト58cmヒップ89cmという設定だった。

 さっき見た女性はかなり若く、スタイルは2つのうち、後の方のデータが近いと感じた。

 残念ながら武田は正面から右に動いた一人にしか気が付かなかった。新横浜から2車両前に乗り込んでいた1名と、その女性を出迎えるフリをして品川駅のホームで待っていたもう一人は、ルームシェアしている高田馬場に戻る感じで、武田の隣の車両に乗って会話を楽しんでいた。


 武田は思った、もう住んでいるところが分かっているなら何をやってもダメだが、そうでないなら、と恵比寿駅で降りてタクシーに乗り換え、代官山駅に移動し、東横線で渋谷、また乗り換えて新宿まで行った。

 外に出てデパートに行くふりをしてデパートの地下から新宿線に乗って市ヶ谷を目指した。駅前のカフェでマンションへと続く道などを30分ほど観察し、大丈夫そうだったので、帰宅した。

 デスクの端末にはOSPからの返信が届いていて、“1/3”との表示だった。3人のうち1人は把握しているとの意味だった。武田は護身用の拳銃の返却を後悔していた。

 一応、ナイフでの格闘の訓練は受けてはいたものの、毎日それを使っている者との差は大きい。

 武田が次に考えたのは、恋人・のぞみの安全だった。陽子はお互い遊びだから割り切っていると言えたが、のぞみは愛していた。

 対応方法は2つ。一つは一緒に英国に連れていくこと。もう一つは別れること。中国政府を刺激するミッションに参加した覚えはないが香港・九龍城の麻薬組織の幹部を殺したことはあった。


 香港返還前の時期で、武田も地方勤務を終え、東京帰任後だった。大学時代の小山内おさないいつきと香港島と九龍半島を歩き回ったが、啓徳空港のすぐ北の宿からは怪しげな光を放つ九龍城は夜空に浮かぶ空中楼閣だった。

 2か月に一度、三合会が余剰資金をトラック4台に積んで港に運び、マカオや台湾経由でアジア各地の同胞に送られているとの情報を得た英国統治政府は打撃を加えるべく、このコンボイを捉えることを実行した。

 三合会と地元警察の癒着がひどく、港湾警察も当てにならないため、香港総督直下の特殊部隊を主力に、港でコンボイを捉えた。密貿易などの罪状ではなく、騒乱、その準備、幇助、武器の不法搬送、外国為替管理規制違反(外国への通貨持出)で幹部級の2名を逮捕し、それ以外は抵抗したとして射殺されていた。

 香港返還について中華人民共和国は本土同様の厳しい取り締まりを行う可能性が高いとの雰囲気の中、公安部長・陶駟駒タオ・シジュが「黒社会(三合会と癒着警察官)にも愛国者(中国人民共和国の味方)は存在する」と発言して、三合会の存在を容認する方針を取ることが明らかになっていた。

 英国政府は表裏一体の作戦を立て、情報部を通じて、タイから1名、香港島内から1名、そして米国を通じて日本から1名の狙撃手を九龍半島入りさせ、三合会のお金を扱った幹部を一掃した。

 三合会が一時的に勢いが弱まり、黒社会の構成員の減少が、それまでアンタッチャブルな存在だった九龍城(九龍城寨)の取り壊し・撤去を可能たらしめた。

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