いちばん古い記憶

誰でもきっと、ひとつくらい誰にも触れられたくない過去の記憶というものを持っている。その秘密の大きさとか客観的に見たときの質とかは関係ない。蓋をしたはずのその箱のふたが緩くなっていってそのうち笑い話にすることができる人間か、逆に強く強く締まって、もはや鍵もなくしてしまい中身を取り出してみることが不可能なくらい、固く閉ざしてしまった人間になるのか。


「人間はそのふたつで分けることができると思うのである。」

「いや両手の酒で例えられても。そんなオリジナルの哲学もどきみたいな話を、なんやたいそうなお告げみたいに。さては、5年ぶりに地元帰るんがそんなに怖いんか。」

 帰福することを決めてからも、本当に帰るのか、なぜか決められずにぼんやり考えて続けていて、それをあっさりと穣(じょう)にいなされる。
わたしは右手に赤ワインのボトル、左手にビールの小瓶を持っていて、感情を隠したくて顔をしかめる。

「うるさいな。地元に帰るのはわたしにとっていつだって大きな決断なんだよ。新幹線高いし、親戚の結婚式じゃなかったら、年末でもないのにこんな時期に帰らないよ。ねえ、どっちがいい?どっちもやらんぞー」

「あー許してタガネ様。ビールビール。そのハイネケンください。結婚式の前祝に乾杯しましょうよお」

ソファから身を乗り出し、わたしを抱きしめて機嫌をとるポーズを見せつつ真剣にビールを奪おうとするので、つい笑ってしまう。そんな必死にせんでもあげるって、ちょっと待っとって、と穣を引きはがし、自分の分のビールも冷蔵庫に取りに戻ってから隣に座る。

「タガネが方言出るのって珍しいよな。聞いたらいつも得した気になんねん。」

「大学でこっち出てきたときに封印したからねー。笑ってつい緩んだ。」

 いつどんな矢が刺さっても、なんともない顔で引き抜いて笑う。
そういうのって、くせになるものだ。
またなんでもないように装って、穣の体温で勝手に温められたお気に入りのブランケットに包まる。ふたりで旅行に行ったときに飲んだ地ビールのおまけの栓抜きで瓶ビールの栓をあけ、乾杯する。
穣が買ってきた外国のお菓子とよく合う。
先月手に入れた、ずっと欲しかった間接照明の明かりが、お気に入りのソファに座るわたしたちを包み込んでいる。自分の部屋に好きな男が居て、隣で同じように寛いでいる。今日はこれを見よう、と提案されたのがわたしのすきなムーラン・ルージュであることに満足する。

「いいね、わたしも今気分。あー九州じゃなくて一緒にパリに行きたいよ」

「帰れる田舎があるって、大阪離れたことないおれからしたら、羨ましいことやねんけどなあ。でもさ、帰るの嫌がるわりには家族ラインはよう鳴ってるやん。」

「うち家族仲は別に普通だと思うよ。地元そのものが嫌なの。そういうのってあるんだよ。ねえ、早く映画つけて。ユアンマクレガー見せてー」

 大人になってきちんと離れてしまえれば、何もなかったように、家族と普通に接することを選ぶこともできる。
鎖がなくなれば、対等な関係を装うこともできる。だって、もう、どろどろしたものをぶつけ合う必要はない。


 なんやねんそのふんわりしたりゆうー、もっと帰ったれやーと笑いながら、穣がリモコンを操作する。

穣みたいな人には分からない鬱屈なんよ。どうでもいいはずの些細な瞬間に、心の底から、大人になってよかったーーーと大声で叫びたくなる気持ちが湧き上がること。そういうことをいちいちぶつけたり、表明したりする必要がない穣が好きだ。
そういう昏い気持ちがないひとだから、今のわたしは穣と付き合っているのかもしれない。

 飲みの席で知り合った3歳年上の彼は、大阪の北部にある、関西の人ならだれでも知っている高級住宅街で生まれ育ったらしい。
小さいころから運動もスポーツも適度にこなせて、適度にきちんと努力ができて、やりたいと思える仕事に就いていて、変にひねくれたところが見えない。都度紹介される、周りにいる友人たちもそんな人ばかりだ。

 その健やかさの源はきっと、何を選択するにもいちいち推し量らないと生きていけなかった子供時代がないことからきているんだろう。

 大丈夫。もう大丈夫、わたしはちゃんと逃げ切れた。

彼の隣で眠るとき、その言葉が頭の中でおまじないのように浮かぶ。


 中学生だったあの頃、現実逃避するために何度ビデオを借りて見たか分からない、狂気的なナイトクラブが映し出された。
子どもみたいに夢中になって、画面に集中して静かになった穣と違い、わたしはなかなか意識を集中させることはできなかった。
わたしが鍵をしたはずの記憶の箱はいつの間にか緩み、勝手に口を開けようとしていた。もう、抵抗するすべはなかった。
箱の中身を見せてくることを、今はただ受け入れるしかない。


 田 多重音(でん たがね)が高校を卒業するまで住んでいた町は、四方を海と山に囲まれていて、自然豊かで、中学校までの通学路には牛舎と田んぼしかなくて、つまりのどかを絵にかいた田舎だった。
電車に乗れば30分ほどで九州一番の繁華街に出ることができるので、田舎と都会のいいとこどりとして、人気だった。
だから、田舎とはいえ人口は多い。学校には40人ほどいるクラスが9つほどあった。生活に不便なことは大人からしたら何一つ見当たらない理想的な町。

 田舎と都会の良さを兼ね備えた魅力的な土地だったのだろうとは思うけれど、この町に住む子供たちはほとんど、電車に乗って他の場所を見に行くことなんてなかった。

 17年前、中途半端な田舎町で、閉ざされたあの街で、わたしはうまく立ち回ることができなかった。逃げる術も持たなかった。


≪なんでみんな簡単にうまく友達作れるんかな。人生3回目とかなんかな。そうやとしたら、あたしは確実に人生1回目やん。前世があったとしても虫だったはず。クラス替えどころか席替えがあるだけで毎回心臓破裂しそう。

↑この前のタガネの悩みやけど、タガネは話しかけても返事しなさそうな顔をいつもしてるのが悪いと思う。話したらみんなタガネのおもしろさに気付くはずだから、気にせんで話しかけまくりい!!!≫


 隣のクラスのまさみからさっき受け取ったばかりのA4サイズの黒いノートを、待ちきれずに、教室の端に向かいながら小走りのままこっそりと開く。本当は、まさみとの交換ノートを始めるときに決めたルールに、〈ノートは家で見ること〉とあるので、これはルール違反だ。
けれど、まさみとの交換ノートを生活の何よりも楽しみにしているわたしにとって、それは守るのが難しいルールだった。
いつも、受け取ればすぐに、日に当たり続けて退色しきった古いカーテンにくるまって、教室の隅でこっそりと読んだ。

 まさみが書く内容は、大抵他愛もないいつものお喋りの延長のようなことばかりだけれど、最近は、二年生になってクラスの女子とまだうまくなじめないわたしの悩みへの返事を書いてくれることが多い。
まさみと違って、誰にでも話しかけられないわたしにとっては、あまり実用的ではないように思えるアドバイスが多いけれど、その見慣れたくせ字やカラフルなペンの使い方を見るだけで、内容に関わらず毎回元気になれた。
短い休憩時間にざっと目を通し、家に帰るまでに、何度も頭の中で返事を考えるのが楽しかった。

 自分たちでノートに無理やり穴を開けて付けたおもちゃの南京錠をしっかりと閉めてから、席に戻って鞄の中にしまう。

『中2にもなってまだ交換ノートなってやってるんですかあ?こどもですねえ』

 誰のことも邪魔せず、静かにこっそりと動いているつもりなのに、隣の席の男子の三島が、また大きな声で茶化してくる。
周りの生徒たちが数人つられたように笑って、こっちを見ている気配がする。わたしは顔がかっと熱くなるのがわかるが、言い返す言葉を見つけられず、えへ、へ、と目線を机に固定したまま笑ってみせた。


 わたしと藤堂まさみは、中学1年のときのクラスが同じで友達になった。小学校も同じだったが話したことはなかった。仲良くなったのは、中学校に入学してからしばらくして行われた席替えで、席が前後になったときがきっかけだった。

 席替え後初めての給食時間、席を班のかたちにし、わたしはまさみと隣り合っていた。
その時のメニューはボルシチとコッペパンだった。
いつものように静かにパンを食べていたわたしを見て、いきなり『パンの食べ方がエロいよね』と、まさみが話しかけてきたのだ。

『え?…どこらへんが…?』

 そのときのわたしはパンを咀嚼していた口を大きく開いてしまった。ものを食べているときに口を開けてはいけないといつも母に言われているのに、人生で初めてそんな言葉をかけられたのと、小学生の時のあだ名が〈お姫様〉だと聞いたことがある可憐な美少女の口から出た言葉が衝撃だったから、本当に驚いてしまったのだった。

『たいていの女の子ってみんなパンを小さくちぎって食べるやろ?田さんは大きいまんま食べとるやん。でも、それが男子が食べよるみたいながさつな感じがせんくて、なんか綺麗で静かなところが、エロくていいと思う。』

 整ったまじめな顔で、きちんとエロい理由を説明をしてくれたことがおかしかった。食事中に大きな声を出したらいけないと言われているのに、その時、言い返したい言葉が止まらなかった。
教室の中で大きい声で笑うなんて、初めてのことだった。

 それから給食でパンが出るたびに、わたしとまさみは、ふたりで〈どうやったら一番エロくパンを食べることができるのか〉を追求するようになった。コッペパンは可愛くエロく食べることができても、ココアがたくさんまぶされた美味しい揚げパンは、どうしてもエロく食べる方法が分からないままだった。
そのうちに給食時間じゃなくてもいつも一緒に居るようになり、どうでもいいことも自分だけの秘密の話も、色んなことを話すようになった。

 クラスでひとりで浮くのが怖いから友達になってください、と恐々申し出をせずに、いつの間にか仲良くなったから結果毎日一緒にいる、という友達ができたことが、わたしにとっては人生初めてのことだった。

 小学生の時のまさみは、綺麗な顔に上品な服をいつも着ていたからか、お姫様と呼ばれてみんなに大事にされていた。クラスがいっしょになったことがない、共通点がないわたしでも知っているくらい人気があった。
中学で制服になったからか、もうお姫様とは呼ばれてはいなかったけれど、フランクに誰とでも話す人気者なことには変わりなくて、まさみと仲良くしたいと思っている女の子はたくさんいた。

だから、人と話すのが苦手で話しかけられてもおどおどしているだけのわたしが、まさみと仲良くしていることを、よく思わない子はたくさんいた。

 最初の頃は、なんであんな子がまさみちゃんといつも居るとかいな、まさみちゃん優しいけんよ、ほっとけんのよ、かわいそう、とすれ違いざまに聞こえるような声で言われたり、しっかり対面で、あたしから勝手にまさみんを取らんでよ、と心底憎らしそうに睨まれたりすることにいちいちしっかり傷ついていた。
けれど、まさみは全く態度を変えることなく毎日わたしの傍にいた。
わたしもだんだん気にならなくなった。

 毎朝、ふたりの家の中間地点にある土手で待ち合わせて、一緒にチャリで登校し、帰り道はふたりが通った小学校の校庭で話し続けた。
話が尽きなくて、夜になっても帰らないわたしを心配した母が中学校に電話したことで問題になった時は、ふたりで泣いた。
学校や親を騒がせたことで問題になり、それからは早朝家を出て、まだ暗い学校で、反省の意を示す掃除の罰を命じられた。
はじめの頃は本当に反省して掃除していたけれど『わたしたちに話すことがあって夜まで喋ってたことと、学校の掃除をせないけんことの関連性がわからん。1月やし、朝も暗いやん。冬の暗い時に待ち合わせる、それはいいんかい』というまさみの唐突の悟りがあり、それでもやめる勇気のないわたしたちは、まだ暗い冬の朝にチャリを漕ぎながら学校へ向かう時間を、なにを食べるかを楽しみにするために使うことにした。

 しばらくはお互いに家にあるお菓子を持って行っていたけれど、ある日何も見つけられなかったわたしは、オーブンで焼いたもちをそのままビニール袋にいれて朝の待ち合わせ場所に行った。

『もちー?お正月たくさんママに食べさせられたのにー』とまさみは見るなりぶうぶう言っていたが一口かじると、
『寒くて暗い中であったかいもち食べよるけんかな?なんか不思議な味。タガネんちのやけんいつもと違う感じがするんかな。寒い中自転車漕ぎながら闇もちしとるのって、この世でわたしたちだけやないと』

 決して美味しいとは言わずに、スーパーで買っただけの正月の残りの餅を、3つも食べた。
そんなこと言いながらめっちゃ食べとるやん、田んぼにめっちゃカス落としよるからあ、スズメがついてきよるからあ、と笑いながら、わたしは、今日もまさみを笑わせることができたことに安堵していた。

 ずっとこうやって毎日が続けばいいのに。
本気でそう思っていたけれど、2月になると、もう朝早くこんでいい、掃除はいいからとにかく朝早く来るなよ、と担任教師から言われ、3月になり、クラス替えの時期がすぐそこに来ていた。


『ねえまさみ、2年生になったら交換ノートしようよ。』

『えー、めんどい』

『いいやんー。まさみ絵上手やけんさ、絵日記でもなんでもいいけんさー。だって、絶対クラス離れるやん。喋れんくなるやん。そんなん嫌すぎるー』

『しょうがないなあ…じゃあ、他の誰にも見られんようにできるならいいよ』

そうやってわたしたちは、わたしの強行により、交換ノートを始めた。

 携帯電話なんて、クラスのほとんどの生徒が持っていなかった。
わたしの家では、どうしても緊急のことだけ親の携帯でメールしてもいいとされていた。嘘をついて借りて使っても、親に内容を見られるのは分かり切っていたから、使いたくなかった。

電話しようにも家電しかない。
子機で自分の部屋からかけたって、家じゅうに会話が聞こえる作りの家だった。

 交換ノートしかなかった。クラスが離れてもまさみとずっとずっと話続けるには、他になんの手段もなかった。

 あっけなく中学一年生が終わり、春休みに、わたしは親と出かけたモールでそのための道具を探した。無印良品で、A4サイズの黒のリングノート5冊セットを買い、隣の雑貨屋でスイマーのおもちゃの南京錠を見つけた。カラフルなペンのセットや、シールも、お小遣いで買えるだけ買った。

 これで大丈夫。わたしたちのお喋りはきっとまだ終わらないだろう。

  そうして、中学2年生を迎え、わたしたちは見事に別々のクラスになった。

 まさみちゃんを取らんでよ、とわたしに言ってきた子とまさみは、同じクラスになって、ふたりが他の生徒たちと一緒に笑っているところを何度も見た。わたしたちは毎日一緒に登下校しなくなった。

 新しいクラスで、ひとりも知り合いがいなかったわたしは、席が近かった女の子のグループになんとか入れてもらうことができて、その子たちが話すアイドルや芸人の話についていくために、歌番組やバラエティを見るようになった。

『多重音、二年生になってから寄り道せんくなったのはいいけどテレビ見すぎよ。勉強しなさいよ。』

『クラスの子たちは毎日見とるんよ。これ見らんと話についていけん。仲間外れになる。』

『やけんって見たくもないバラエティ見てどうするんよ。そんなことせんと仲良くできんなんて友達やないやろう。いいけん消して勉強しなさい。』

見たくもないテレビを見ないと成り立たないような友達を失えば、わたしはあの狭くて果てしなく深い空間でひとりなのだ。

『今のクラスの子たちはみんな見てるんよ。面白いよ。お願い、これだけ見せて』

『そんなこと言って、最近ずっとやないと。それならもう映画とか本とかの時間減らすけんね。終わったら勉強部屋行くんよ』

 わたしの家では、週末の数時間だけ、ご褒美として与えられていた自由時間があり、その時ひとりで映画を見たり本を読んだりすることががいちばんすきだった。
まさみとあまり話せなくなってからは、それが一番すきな時間だった。
けれど、映画や本の話をする友達がいない今、それを削ることが妥当のように思えた。

 テレビから大きすぎるような笑い声があがる。
なぜ人気なのかがわたしにはわからない、知らないタレントが自分の性格のずぼらさについて話していた。今日まちゅんが出るから、絶対見てね、ともえみちゃんから言われている番組だった。見ないと、次の日きっと会話についていけない。

だから、諦めた。

 部屋にいるときは、母の監視を盗んで交換ノートを書いた。
わたしの勉強部屋はベランダに面していて、母はなんでもない顔をしてベランダからわたしの様子を監視することがあった。
けれど、ノートに何か書き付け入る姿は、一瞬見ただけでは母への裏切りであるかどうか分からなくて、好都合だった。

わたしは下手だけれど、まさみは絵を描くのが上手だった。
まさみが母親の部屋から抜き取ったレディコミをもとに、いくつかの話を混ぜた物語を作った時、本当にプロみたいで驚いた。
それを興奮ぎみに伝えてから、画の数は増えていった。嬉しかった。
交換ノートは秋になっても続いた。

『ふたりともオリジナルの話を作って、漫画で描いてみらん?』

 まさみのその申し出で、わたしたちの交換ノートは自分のオリジナルの漫画を描いて交換してみることがメインになった。

 『いいよ!!でも、ちゃんと完成させてね。途中で飽きんでよね』

 そう約束して、分かった、守ると言われたことがなによりもうれしかった。
まさみには楽しいことがたくさんあるから。

最初に描いたのはまさみだった。

絶対に家で読んでよね、と、昼休みに恥ずかしそうにノートを届けに来たまさみに、周りを気にしながらいつもよりも強めに言われたので、黙ってうなずき、学校では開かず、すぐにかばんの奥底にしまった。早く家に帰りたいと思ったのは、産まれて初めてだった。


 主人公は小学生の女の子だった。それは、同じマンションに住む男の子と喋りながら歩いているシーンから始まっていた。

 ≪ふたりは小学2年生から同じマンションに住んでいて、毎日一緒に帰り、互いの家やマンションの共有スペースの公園でよく遊んでいる。

 6年生になる。春休み開け、久しぶりに一緒に帰る。男の子はいつの間にか背が高くなり、少し前からランドセルを背負っていない。
周りを歩く子たちはみんな変わらずランドセルなのに。大きくて黒いナイロンのリュックを背負い、前より自分から少し離れたところを歩く男の子の、横顔をそっと見上げる。
何年も見てきたはずなのに、最近知らないひとみたいに見えることがある。そのとき、男の子ののどが動くのが見えた。

あれ、キヨこんなのどしてたっけ。なんだかごつごつして見える。モノローグがあり、次のコマで男の子が彼女のほうを見る。

―なに?

その声は、記憶の中よりも低く、少しかすれている。けれど、少し首を左に傾けて彼女を見るくせと、その時の優しい目はいつもと同じ。なぜか、彼の後ろに見える、いつものように沈んでいく太陽が、いつもより眩しく見える。

―なんでもない。きょう、ママ遅いからキヨの家で待たせてもらってって、言われてるんだ。

お菓子持ってあとでピンポンするね。≫


 わたしはページをめくるが、そこで終わっていた。

何年間もずっとふたりが仲良く過ごしてきたことがきちんと伝わる画だった。
まさみのオリジナルのまんがを読んだのは初めてだった。
本当に絵がうまいんだ。と純粋に驚いた。嬉しかった。なんだか、知っているような、知りたいような気持ちがした。
リアルでどきどきした。


 まさみ、好きな人がいるのかな。まさみのマンガが何話か進んだとき、わたしはそう思った。わたしたちはそれまで恋の話をしたことがなかった。

あの先輩かっこいー、とか、転校生がなんか都会の人って感じして大人っぽいんやけど、とか、そんなことは言っていたけれど。
わたしに好きな人はいなくて、まさみからも聞いたことがなかった。

 それでも、この男の子は、実際に存在しているんじゃないか。まんがが進んでいくうちに、だんだんそう思うようになった。

 静かで、背が高くて、話すときに首を少し左に傾けてこちらをじっと見る、大人びた男の子。

 その子は、まさみのとなりで一緒に成長していったんだろうか。
もしかして、今もまさみの隣にいるんだろうか。

 そう考えて、その日の夜はうまく眠ることができなかった。なんどもまさみの描いたまんがを開き、濃い鉛筆で描かれたその線をみつめた。
男の子を描く線だけが、なぜか優しく見えた。


 次の日、席替えがあった。どうかクラスを仕切っている賑やかなグループの女の子たちと近くなりませんように。それだけを毎回席替えの時必死に祈ってくじを引いた。

願いが通じたのか、自分と同じグループのこゆきと近くなりほっとする。
わたしの隣に座った男の子は、大きな声を出すのを見たことがない、静かな人だった。

 机やいすを動かすガタガタとした慌ただしい席替えが終わり、数学の授業が始まる。わたしの前の席の男子が、急に後ろを振り返る。
え、話しかけられる、どうしよう、と思っていると『キヨタカ、消しゴム2個持っとらん?』と、わたしの横の席の男の子に向かって、小さな声で聞いた。

あるよ、と同じように静かに答えたその声は、低くかすれていた。

 わたしの胸はどきんと高鳴った。
話したことがない人にいきなり話しかけられた時とか、クラス全員の前で発言させられるときの、あの追いたててくるような、逃げられなくて溺れそうになるいやな高鳴り方と、それはぜんぜん違うかんじがした。


 掃除の時間、班ごとに分担された掃除場所で、彼がひとりでほうきを掃いている後ろ姿を見つけた。
周りに見ている人がいないことを何度も何度も確認しながら、少しずつ近寄っていった。わたしたちの班は体育館裏の掃除が当てがわれていた。見張る先生がおらず、サボっている子たちも多いのに、彼はきちんとひとりで、落ち葉を竹ぼうきで集めているのだった。

 あなたがまさみの特別なひとなんですか。

彼に、そう聞いてみたかった。聞いたからどうしようという考えもないし、まずそんなことをしたらまさみに絶対に怒られる。
まず、わたしは、クラスの男の子に自分から話しかけたことがなかった。

 わたしが躊躇していると、いきなり彼が振り向いた。

『なに?』

少しだけ、首を左に傾けて、静かな目でわたしを見ている。

『あ、ああ、ち、ちりとりないかなーって、持って、きたので…』

あらかじめ用意していた、話しかけるための道具を差し出す。

『え、ここにあるよ。でも、ありがとう。』

もちろん、彼の隣にちりとりがあることはちゃんと最初から見えていた。

ここからどうやって話しかけたらいいのだろう、と今すぐここから去りたい気持ちでいると『田さんって、本をよく読むんだね。』と彼が言った。

『え、どうして』

『朝の読書の時間とか、すごい速さでページめくってるの見える。周りの子たちと全然違う。あと、すごく楽しそうに本を読んでる。』

おれも本、すきだから。そう言った彼の目が、少し笑って見えた。

 その時、まさみが見ている世界と同じ風景が、わたしにも見えたような気がした。

『今日、恩田陸の本読んでた。あれ面白い?』

彼がまた落ち葉に向きなおり、ほうきで掃きながら、そう言った。

 そんなことを他人に聞かれたのは、初めてだった。

『う、うん。すごく面白いよ。物語の雰囲気がまず、す、すごく好きで。冒頭からいい。登場人物のものの考え方とか振舞いとかも素敵で、』


わたしは、何かを見たり聞いたりして感じたことや自分の意見を、人に言うことがほんとうに苦手だった。
作文とか感想文ならどこがすきか、いくらでも紙に書けるのに、どんなにすきと思うことでも、相手に対して自分の口で伝えることが苦手だった。

 そんなとき、顔は熱く赤くなって、自分がなにを言いたいのか全く分からなくなるし、心臓は長いマラソンを走り終わったあとみたいに早くなる。
手足はつめたく、全身が震える。

 けれど、彼にはちゃんと自分のすきなものの話をすることができた。特に知らない人に読んでいる本の話をするなんて、一番恥ずかしいのに。彼の目線が落ち葉に注がれたままだからだろうか。
それなのに、きちんとわたしの言葉を聞いていることが伝わってくるからだろうか。

『へえ、次それ読もうかな。面白そう。』

『よ、良かったら貸そうか?もうすぐ読み終わるけん』

『え、いいの。おれお小遣いから本買ってるから、助かる』

心地よく鳴り続ける心臓の音がする。こんな音が自分からすることが、信じられなかった。

『じゃ、じゃあ、代わりにいま読んでる本読み終わったら貸してくれる?』

『うん、いいよ。交換しよう。田さんの好みに合うかわからないけど。』

そう言って彼が言ったのは、わたしが読んでみたいと思っていた新人の作家の名前だった。

『あ、それ読みたいと思っとった。嬉しい』

『よかった。』

 互いに自分が読んでいる本を、異性と交換し合う日がくるなんて、信じられなかった。素直に自分の感情を伝えることができる人間がまさみ以外にいるなんて。

『田さんって、名字も名前もなんか特別なかんじがする。』

彼が唐突にそう言った。

『変わっとるよねって、よく言われる。この名字は日本に千人くらいしかおらんらしくて、まだ家族以外の田さんに会ったことないんよね。多重音は、音楽がすきだから付けたって親が言っとった。
わたし音痴やし、字がごつくてちょっと嫌やった時期もあったけど、響きはすき』

喋りながら、まさみといる時みたいに長い言葉で説明できるようになっていることを自覚していた。

 今まで、変だ、変わっている、と言われ続けて傷ついて、そしてもう慣れたはずの自分の名前について、特別だ、と現わしてくれたひとは、初めてだった。

 あはは、と、明るい笑い声が響いた。

びっくりした。静かに話していたはずの彼が、目の前で楽しそうに笑っていた。

『急にすごいいろいろ話してくれるようになった。しかも、音痴なんだ。なんでもできそうな澄ましたかんじなのに、音痴っていうのが、ごめん、おもしろかった。』

 そう言ってわたしに笑いかける彼の周りの空気が、なぜかきらきらとして見えた。
きっと、秋の澄んだ空気の中で、ほこりとか塵とかそういうものが光に当たっただけのたまたまの現象なのに。優しく笑っている目にかかる少し茶色く見える髪が、さらさらと揺れた。

ほうきを握る、自分とは違う大きい手に浮いた血管も、上履きに書かれた藤美という丁寧な油性ペンの文字も。
今でもあの姿を忘れることができない。


 まさみのすきな人が、この人じゃありませんように。
席替えの前に心を込めて祈る時の何倍も強くそう思った。
この先一生、うるさい女子に囲まれた席を引き続ける人生になってもいい。

 それが叶わないなら、今すぐにまさみになりたい。

 まさみは、わたしが本の登場人物に憧れて口癖をまねることを笑ってくれる唯一の人で、映画でみた女優に憧れて、どうにか似ている服を見つけ出したいとばかみたいに言い張るわたしがしまむらやイオンまで行くのに自転車で一緒に付いてきてくれる、唯一の友達だった。
それ全然似てない、違いすぎる、ダサすぎるー。そう言いながら何時間でも、どこにいても、ゲラゲラ笑いながらふたりで試着をした。


 それから、隣の席の男の子、藤美清高(ふじみ きよたか)―清高と、よく話すようになった。

 わたしの前の席の峰くんは清高と小学校の頃からの仲良しで、次第にわたしは彼とも話せるようになった。
こゆきと峰くんはすきなバラエティ番組が一緒で、ふたりは面白いと思うもののツボが似ていたから、4人でよく話すようになった。こゆきと峰くんが、前の日のテレビの再現をリアリティあふれるコントみたいにやってくれて、毎日笑わせてくれるので、特に見たくないテレビを見て次の日の会話の予習をしなくても、大丈夫になった。

 わたしが3人と話したり笑ったりしているのをみた他のクラスメイトも『田さんって普通にちゃんと喋れたんやね』と、少しずつ話しかけてくれるようになった。
わたしが壁を作って、過剰に防御していたから、周りも怖がって当然だ、と初めて分かった。
まさみのアドバイスの通りだった。毎日が楽しかった。嬉しかった。


 放課後、ひとりで駐輪場から自転車を出しているとき、後ろから肩を叩かれた。

びっくりして振り向くと、自転車を押した清高がいた。

『え、帰ると?部活は?』

『今日、弟が家でひとりで寝てて。早く帰ってやりたくて。風邪みたい。』

『ひとりでお留守番してるん?はよ帰ってあげな』

『うん。方向一緒よね。』

 中学生の男女がふたりで一緒に帰っていたら、周りに何を言われるか分からない。
けれど授業終わりと部活が終わる時間との狭間で、周りには先生も他の生徒もいなかった。かつ、清高は、そんなことは気にしていない様子だった。
だからわたしも、なんでもないことのように「うん、帰ろっか」と自転車に乗った。

 校門を出た瞬間から、見渡す限り一面緑の田んぼだけが広がる。たいていひとりで通る毎日の見慣れた道で、なのに、今日はやけに稲の葉がゆれるサラサラという音が大きく聞こえた。

『前から思ってたんやけど、清高って訛っとらんよね』

『うん。おれ東京で生まれて、親も親戚も関東の人間で。小学校2年のときにここに引っ越してきて長いけど、そのまんま。』

『東京かあ。すごいね。こことは別の世界みたいなんやろうね』

行ったことのない、日本の標準とされている世界。

『テレビの中のひとたちの標準語って、聞いててなんかかゆくなる時あるんよ。でもわたし、清高の喋りかたはすきなんよね』

 なんでなんだろう。どうしてこんなに、初めて話したときからしっくりきてしまったのだろう。

 お互いにはっきりと、自分の家の場所の話をしたことはなかった。けれどふたりとも当然のように自転車をこぎ、言わなくても同じ角を曲がる。
それは、わたしとまさみの通学路と同じだ。

『なんでなんかな。本を読んだ時と、同じ気持ちになるけんかな』

 少し強い風に、青々と茂った稲が一斉に流れる音が聞こえた。同じ方向に頭を垂れるのだ。
遠くの牛舎の牛のしっぽが、のんびりと左右に揺れる。清高といると、目も耳も急によくなったような気がすることがある。
どうでもいいことが、しっかりと目に映る。
ふだん見えていない世界がはっきりと見える。どうしてなんだろう。


 清高はなにも言わない。何か返して欲しかった。なんでもよくて。
いつもみたいに、わたしの言葉に対するきちんとした言葉が。
そっと顔を見ると、あの優しくて静かな笑顔だった。

『おれがこっちに引っ越してきて初めて友達になった子は、学校でおれが周りから標準語を喋ることをいろいろ言われているのを見た時から、ふたりで居るときは標準語で話してくれるようになったんだ。』

胸が、いやなほうの鼓動をひとつ鳴らした。その子の話を聞くのは初めてだった。

『周りからなにを言われてもよかった。違う言葉を喋るとか、なんでここに来たのかとか。その子とずっと一緒に居たから。変わらなくていいって教えてくれたから。』


 家に帰ると、誰もいなかった。苦しくて、小さい時に治したはずの喘息の症状みたいに息がしにくかった。クラスメイトの前で話すときよりも顔が熱く、手足は冷たくてふるえていた。

 今日受け取った交換ノートを、かばんから出した。

 清高の存在を知ってから、ノートを見るのが楽しみな気持ちと、怖さが湧き上がるようになっていた。今日は、怖さのほうが大きい。それでも、開かないでいることはできない。


≪主人公の女の子と、同じマンションの幼馴染は、中学生になった。もう学校の行き帰りは一緒にしないし、校内ですれ違っても話すことはない。

けれど、毎週木曜日だけ、なにも約束をしていなくてもふたりは会った。ふたりの母親が、夕方公民館でバレーをする日。ふたりとも兄弟が居て、みんなで一緒に、どちらかの家で遊ぶのだ。けれど、ふたりは、兄弟たちがゲームに夢中になるとき、そっと別の部屋に行く。

その瞬間だけのために、生きている。

リビングから聞こえるゲームの嬌声。ふたりはとなりの部屋で、ドアの前にしゃがんで見つめ合う。部屋には鍵がついていなくて、小さくて何も知らない兄弟たちがいきなりはいってこれないように、昔からそうしている。

―やっと、顔見れた。≫

 その男の子のセリフの次のコマで、ふたりはキスをしていた。
ちゃんと、お互いをぎゅっと抱きしめあって。少女マンガで見るみたいな、思いが通じ合った時の主人公のやつだ。

 そこまで見て、わたしはノートを閉じた。

ノートの中の男の子は、眼の下にほくろが描かれている。
同じところにほくろがある清高と話す言葉が増える程に、どんどんまさみには聞けなくなっていた。

「これってわたしの隣の席の男の子のこと?」

今日は木曜日だ。


 次の日、清高の顔を見ることができなかった。時々こちらを見る視線を感じたけれど、気付いていないふりをした。

 選択授業が終わったあと、音楽室から教室に戻る廊下で、こゆきが不思議そうに聞く。

『多重音ちゃん、なんで今日藤美と話さんと?けんかでもしたん?元気ないしぃ』

わたしは、そんなことない、普通だよ、と笑って答えながら教室に入る。

 すごく嫌な音が胸で鳴った。
おなかの中が急に熱くなって、喉がぎゅっと締まるのが分かった。わたしの机、席の周りに、人が集まっていた。
男子の激しい笑い声がする。女の子の、えー、やだぁ、ありえん、きもいー。という、蔑みながらも興味を隠し切れない声。

 どくん、どくん、耳の横に自分の心臓があるみたいだ。なんで。

わたしの席の周りに立っている男子たちの中心で、わたしの席のはずの椅子に座った男子が、黒いノートを持っていた。
机の上にスイマーの南京錠。ちぎれた紙切れ。

 彼は、まさみが描いたマンガのセリフを、声に出して読んで周りに聞かせていた。


『かえしてっ』ほとんど叫ぶようにして、その手からノートをひったくった。

 男子は驚いてこっちをみる。交換ノートを見るたびにいじわるな言葉をかけてくる三島だった。彼は、唇を片側だけゆがめながら開いて、いやな笑い方をした。

『お前が描いたんやろ?お前、ヘンタイやんか。やべえー』

周りの男子たちがどっと笑う。オタクきしょー、と声がする。少し離れたところから見ている、クラスでいつも大声で騒ぐ女子たちが『学校にマンガもってくんなよー、没収しろー』と煽る声が聞こえた。

 二度と絶対に、誰にも奪われないように、胸で抱え込むように強くノートを握りしめる。どうしよう、どうしよう、と思っていると『お前、藤美のことすきやけんって、妄想で脱がしたらいかんやろう』そう言われて目の前が真っ白になるのと、あっ藤美登場―っと声がして、クラスがさらに湧いたのとが、同時だった。

 振り向くと、教室の入り口に清高が立っていた。

「藤美お前、このおんなのエロマンガのネタに使われとるぞお。気をつけんと全部まんがにされるぞおお。」

ちがう、ちがう、全部違う。そう言いたいのに、何も言葉が出てこなかった。

 清高は、少し首を左に傾けた。その目を見ることはできなかった。
困ったような、迷惑そうなかたちに、つよく引き締められたくちびるだけがぼんやり見えた。
彼は何も言葉を発しなかった。


 耐えきれずに、清高の横をすり抜けて教室の外にまろび出た。騒がしい教室で何かあったのかと、廊下にも人だかりができかけていた。どこでもいいからここ以外の場所に、と走り出そうとした瞬間、腕を強く握られた。

 まさみだった。今までに一度もみたことのない顔をしていた。

『最低。ルール破ったね』

 わたしが何かいうたびに、いちいち大きく笑ってくれたくちびるが、そう言い放った。
どんなつまらないことでも聞いてくれる、ぱっちりとした優しい目を、今は真っ赤にしてわたしをにらみつけている。
おそろいのマニキュアを塗ってプリクラを撮りに行ったときに繋いだ手が、今わたしの腕を強く強く掴んでいる。
わたしの目から、涙がこぼれ、まさみの腕の上に落ちた。
まさみが歯を食いしばって、その目からも涙が落ちるのが見えた。

 わたしはまさみの腕を振り払い、走り出した。
わたしは、残っているすべての力で、逃げることを選んだ。

 教室棟から離れ、人気がなく暗い専門教室棟まで走った。あまり生徒が来なくて使われていないトイレに逃げ込む。ノートのすべてのページをリングからむしり取り、力任せに千切った。汚いなんて思う余裕もなく床に落ちた紙を臆せず拾い、もっと小さく小さく、なくなれ、早くなくなれ、とちぎる。いつの間にか声に出していた。シュレッダーにかけるよりも細かくなるまで、泣きながら全部のページを千切り続けた。


 まさみと清高が、小学校から家まで毎日一緒に帰ったこと。何回同じ道を通っても足りないと思ったこと。
他の人がいないときにひっそりと交わす言葉の内容。木曜日、ふたりはキスしながら、互いの服の中に初めて手をいれる。素肌に触れた時、互いのからだの硬さと柔かさに驚いて、幸福で胸がいっぱいになったこと。ベットに寝かされた、緊張したようにこわばるまさみの両足を持ち上げ、いちばん奥の場所に清高がくちびるをつけている。わたしの前で見たことがない、まさみの幸せに満ちた顔。

 これを初めて見た時、ああ、まんがでよかった、と思った。
もしふたりが実際に睦みあっているのを目にしたら、きっとこれより美しく、ガラスより脆くて儚い。そんなの、絶対に耐えられない。


 全部が、跡形もなく散り散りになった。
指は鉛筆の芯の黒さに染まっていた。もう何もない。かがやき始めていた毎日も、わたしの言葉をきちんと受け止めてくれる友達も、もう何もなくなった。

 紙をすべて便器に流し、黒い表紙だけになったノートを握りしめて、暗いトイレの中で、ひたすらに涙を流し続けた。

 どれくらい経ったか、わたしの名前を呼ぶ校内放送が流れる。

『2年A組 田さん。田多重音さん。今すぐ職員室に来てください』

 その後、応接室に隔離され、親を呼び出された。

『あなたの娘が卑猥なマンガを描いているのがクラスメイトに見つかり茶化され、キレて、授業をボイコットした』

 担任教師からそう告げられた母親は青ざめて、泣きながら謝り続けていた。

 本当のことなの?とか、なにがあったの、とか、一度も聞かれなかった。

すべてが間違っているようで、すべてがその通りのような気がした。なにも、誰にも、反論しなかった。
もう証拠は残っていないし、あっても誰にも見せない。もう、誰にもわたしたちの世界を言葉にされたくなかった。

 ふだんは大人しくて成績のいい、おおむね優等生だったわたしが、こんなこと、をしたことに、教師は明らかに引いていてあまり関わりたくないようだった。
授業をボイコットしていなかったらお母さんを呼ばなくてもよかったんですけどねえ、一応決まりなんですよねぇ、そう言われて母はまた一層小さくなり、すみません、本当にすみません。そう永遠に繰り返した。

 授業を無断欠席しません。二度と学校にまんがを持ち込みません。そう反省文を書かされた。他には何も求められなかった。
何を約束しても、もう、校内掃除をわたしと一緒にしてくれる人はいない。


 教室に戻ると、季節外れの席替えが終わっていた。
わたしは窓際の一番後ろの席で、対角に清高が座っているのが見えた。教師たちから強く指示があったのか、そのあと誰もマンガのことをわたしに直接言ってくることはなかった。けれど、他愛もないことで話しかけてくることもなかった。少しの間、きまずそうに離れていたこゆきやグループの子達は、しばらく経つとまたわたしを仲間に入れてくれた。優しさと安堵に涙がでそうだったけれど、何もなかったようにふるまった。

 親は、わたしがおかしくなったと思い込んでしまっていた。
悩みぬいて一睡もしてません、という悲壮感を漂わせた表情で、一度、病院に行こうか、と言ってきた。もちろん行かなかった。
その後も、ほんとうのことは何も聞いてこないくせに何かと気にする姿に、もうおかしなことはしない、こんなことばかり言われる日が続くなら死ぬ、と真っ直ぐ目を見て言うと、何も言ってこなくなった。
それでも、わたしの机の引き出しやかばんを定期的に漁っていることには気づいていた。それは昔からの母のくせだった。勝手にかばんや引き出し、日記帳を見られるのは、悔しくて辛くて悲しいことだった。
何度泣きながらやめてと言っても、たあちゃんのことが大事やけん守るんよ。そう言われた。

 昔、まさみにそれを打ち明けたことがあった。そんなところに多重音のだいじなものはないから大丈夫。まさみはそう言って抱きしめてくれた。

 確かに大切なものなんてもうどこにもない。隠したいことがひとつも見当たらない。それなら親の過干渉も、何を詮索されたとしても、もうどうでもよかった。


 交換ノートはもうない。清高にあの優しい目で見つめてもらえることも、もう二度とない。大事なものを、2つも望んだからだ。
きっとただ見守るべきだったのに、ふたりの世界に入ることを願ってしまったから、罰が当たったんだろう。涙が止まらなくなる夜には、そう思った。

ふたりと話すことは一度もなく、中学を卒業した。

 ほんとうに大切な存在は、気付いたときに隣にいる。
自分を偽ったり、良く見せようとしなくていい。ただ、そんな人と巡り会えたなら、誠実に愛さないといけない。何があっても、絶対に手を離してはいけないのだ。

 それを教えてくれたのは、あのふたりだった。
もう、周囲の雑音は気にならない。そうなってから、新しい環境でも人間関係を築くのが随分楽になった。


 いま誰がどこにいるのか、何をしているのか、知りたくなくても、みんなが誰かの知り合いのような狭い土地では、勝手に近況が耳に入る。県外の大学を受けることは前から決めていた。高校生になっても変わらず過干渉だった母は当然のように反対したけれど、こんな土地に居続けたら死ぬ、とまたまっすぐに言うと、あの時と同じように黙った。

 それからずっと、大阪に住んでいる。

 誰かのことを思い出すのが怖くて、東京には行けなかった。
けれど、彼と同じ言葉で話すことだけ望んでしまった。
関西で九州弁を話すとなめられることが多いから。そんな言い訳をよく口にした。

 閉じていて互いの動向ばかり気にする小さな土地と、ここは全く違った。広くて、いつでも高い建物に隠れることができて、全員が匿名の、信じられないような数の人間がいる街の中で、わたしはその他大勢の誰かに紛れることができた。はじめて、まともに息ができた気がした。     
どう考えたって生まれ育ったあの町のほうが空気は綺麗なのに、汚れきったような息もできない都会の風に、すぐに慣れた。

 歳を重ねるごとに、浅く広く、うまく人と話すことができるようになった。
地元にいたころの友人と会うことはほとんどない。
けれど、まさみは関東の美大に進んだらしい、ことを誰かに教えられた時、その時だけは、ただ嬉しかった。

 まだまんがを描いていたらいいな。本屋にそれが売られていたらいいのに。

 売り物なら、同級生にこんなもの書くなんてヘンタイだ、なんて言われても、お前がおかしいだけだろ、ひとのものを勝手に漁るんじゃねえよ、そう言い返せるだろう。

 いや、あのノートのままだとしても、今の自分ならきちんと言い返すことができる。

 あれは確かに美しくて、しっかりとふたりの物語だったのだから。そこに組み込まれることがいちどもなかったわたしが恥じる必要なんて、あの頃も1ミリもなかったのだ、ほんとうは。

 あの頃確かに、消えてしまいたいと願った夜があった。死ぬのが怖いのに、明日が来ることはもっと怖かった。それでも、一瞬だけ激しくきらめいたあの日々をたまに思い出す。箱から取り出して、ふと眺めたくなる。じっと見つめて、傷だらけなのにまだ輝いていることを確かめる。



 映画のエンドロールが流れる。

穣が隣で伸びをして「いやー、やっぱ面白いわーすきやわあー」と笑顔でわたしの顔を見た。途端に驚いた顔になる。

「えっ、めっちゃ泣いてるやん。どうしたどうした。」

いや、なんでだろ、ホルモンかな。
そう笑いながら、テーブルの上のティッシュの箱を引き寄せる。その横に置いていた葉書が床に落ち、穣がそれを拾ってくれる。

「個展のお知らせ?福岡会場?これ行くん?」

「いや、迷ってて…もう、15年くらい会ってない、昔の友達で。友達って言えるのかも怪しいけどね。」

 それは、今朝ポストに入っていた、実家から転送されてきた個展の案内の葉書だった。懐かしい名前に古い傷がひきつれるような痛みを感じたけれど、きっと昔の同級生みんなに送っているんだろう。そう思って裏面を見た。届いた時にはよく見ずに気付かなかった、手書きの文字があった。

 あの、何度も心待ちにした、懐かしい文字。大好きだったくせ字。


多重音へ

何年もかかったことを、できたらゆるしてください。

あの時、恥ずかしくて、多重音のせいにしたこと。だんだんそれが自分でゆるせなくなって、どう話しかけたら元に戻ることができるのか、わかりませんでした。

ちゃんとマンガを完成させました。あれからずいぶん長くかかったけど。

守ってくれて、ありがとう。

多重音がああしてくれなかったら、続きはなかった。

読んでほしい。あいたいです。待ってる。 
藤美まさみ


(完)




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