死ぬのが怖くなくなる本

 人間が「死ぬこと」を恐れるというのは、遥かな昔からそうだっただろう。

 だからその恐れから逃れようとして例えば宗教が生まれ、天国や地獄や生まれ変わりや、そういう概念を編み出してきたのだろう。埋葬や墓にも特別な価値を見出しても来たのだろう。丹波哲郎は極楽のような霊界を提示していたが、死への恐怖心がきっと人一倍強かったのだろう。
 手塚治虫の『火の鳥』でも、不老不死を求めるのは富や権力を手にした人間が多い。普通に考えるなら、富や権力で現世を楽しんだのなら心置きなく死ねばいいのにね。

 若い頃から、岸田秀の『ものぐさ精神分析』(および同テーマの様々な著作)を読んできた。岸田の本では、ずいぶんと考え方が楽になった。
 岸田の理論とは、要するに人間は本能が壊れており、人間の文明や社会のあらゆることは本能が壊れた人間が生んだ幻であり、実態はないのだとするものである(唯幻論)。他のすべての動物はそんな概念を持っておらず、本能に従って与えられた環境で生きて死ぬ。
 人間は本能に従って生きることが不可能なので、様々な概念や習慣を生み出さなければ生存できないし、種を存続させることもできない。
 だから人間は文化・国家・宗教・時間・空間・言語・家族・恋愛などの幻想を作り出して生き延びてきた、というのが唯幻論である。

 <人間が死を恐れるのは、生物学的な意味での生命から多かれ少なかれ遊離したところに自己の存在を築いているからであると思う。>(『続ものぐさ精神分析』より)
 この本をもしも知らなかったなら、おれは「死」を単なる不条理なものとして恐れているだけだったかも知れない。
 誰でも好き好んで死にたくはないであろうから、『ものぐさ精神分析』はぜひとも読んでおいた方がいいと思うのだ。

 さて、死が怖くなくなる本の実例を紹介してみます。これまでにおれが読んできた本の中で、死ぬことへの恐怖が少なからず軽減された本の紹介です。

 まずはこれ。

『〈脱〉宗教のすすめ』(竹内靖雄・PHP新書・2000)

 この本は、なぜ人間が宗教を必要とするかを説明し、そこから脱却しようと説く。基本的にはおれも賛成である。各章の最後に架空問答のようなものが書かれていて、印象に残ったのは次のような箇所。「Q」が架空の質問者で、「A」が著者である。

Q あなたは死ぬのが怖くありませんか。
A 怖くありません。
Q それはなぜですか。
A 生きているうちは死はありません。だから死を怖がる理由もない。死んだら私がなくなります。ない私が死を怖がることはできません。よって死を怖がることはない。(中略)
Q しかし死ぬ時には大変な苦痛があるかもしれませんが……
A (中略)激しい苦痛というものは長続きがしない。長く続く苦痛はがまんできないほどひどくはない。怖がることはないでしょう。

 そう言われるとそんな気がしてくると思いませんか?
 次の本の紹介にいきます。

『死に方のコツ』(高柳和江・小学館文庫・2002)

 死ぬことがいかに痛くないか、怖くないか、ということを経験から綴った本である(著者は医師)。同じような内容の本は他にもあるかも知れないが、著者の次のような一節を読んで、ここまで達観できるならそれは良いことではないかと思ったのだ。

 <今、私は死ぬのがちょっと楽しみである。なぜなら、体験したことのない世界を知るって、ワクワクする冒険だから。>

 どうせいつかは死ぬのだから、楽しみに待つのも考え方としてはお得ではなかろうか。とにかく一度は死ぬ、ということだけは確かなのだからね。「一度は死ぬ」ことを認めない人には、「じゃあ最初から生まれない方がよかったのか?」と問いたい。
 とりあえず、生まれてよかった、ということにしよう。

 死ぬことが怖くなくなる本をもう一冊だけ紹介しようと思う。
 この本はすごいよ。死ぬのは怖くない、ということを徹底的に主張してくる。しかも、まだ死んだことがない人が書いているなんて信じられないくらいの強硬さである。

『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司・講談社・2013)

 著者は、ありとあらゆる方向から「死ぬのは怖くない」「死ぬのは怖くない」ということを説明する。次のような項目を立てて。

ルート1 心は幻想だと理解する道
ルート2 すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道
ルート3 自分の小ささを客観視する道
ルート4 主観時間は幻想だと理解する道
ルート5 自己とは定義の結果だと理解する道
ルート6 幸福学研究からのアプローチ
ルート7 リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ

 こんなにあの手この手で迫ってくるのである。
 ルート2の中の「人生はあぶく銭だ」という主張が特に印象に残った。
 あなたはもともとお金を持っていなかった。しかし今はなぜか1万円持っている。しかしいずれ、そのお金がなくなるとしたら、それをあなたはどう捉えるだろうか。と設問してくる。
 一万円を失う未来を憂えるか。そのお金を得た奇跡的な現在を喜ぶか。
前者は、今一万円を持っていることから出発するから、失うことの絶望に向かう。1万円の維持にフォーカスしている。
 対して後者は、人生を始まりから俯瞰する立場に立って、もともとゼロだったものが1万円になったこの人生というあぶく銭を楽しむという考えである。

 <このラッキーな1万円を、幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。そして、なくなったら、なくなったときだ。くよくよしたって仕方がない。もともと持っていなかったのだ。
 悩んでいないで、潔くまたゼロ円に戻ろうではないか。>

 分かりやすい譬えだ。確かに、どうせいつか死ななければならないのだ。怖がってばかりいても仕方がないよね。

(2017.4初稿/2020.6改稿)

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