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束の間の人生どう生きるか

寝落ちしていたようだ。

起きた時刻は午前2時。テレビがつけっぱなしで、「束の間の一花」というドラマが始まった。

余命宣告され明日生きられるか、という大学の先生。彼に恋をした大学生のはなし。

人生は束の間。いずれ死ぬのに、生きることに意味はあるのか。人が長い間向き合ってきた命題であろう。

私も、いつかおわる人生に意味なんてあるのだろうかと人生に懐疑的に、虚無感に襲われることがある。

そこで彼はいう。雪が溶けていくのをただ眺めるか、雪をかためるか。
束の間をどう生きるかで、人生は豊かになると。


この真夜中のドラマが私の心に響いた。大事な家族ペットの死。親の老い。自分の老い。

日々時間の流れの早さを実感するが、それに目を向けず、今の快に心を奪われる愚かさ。

人生は短いのである。

22歳のわたしは、平均寿命まで生きるとしても人生の1/4を歩んできた。

この短い人生を、
人生に無駄なことはないといいつつ、本当にむだにしないために、
有意義に生きるために、死ぬ時におもしろい人生だったと思えるために、
どう生きるか。

本気で考えるフェーズに入ったのだと思う。
生活の雑音に忙殺され、私の生き方が見えなくなっていた。これまで見えていたというわけではないのだが、
ゴミの部屋からリモコンを探すような、そういう状況になっていたのだろうと思う。

私はどうありたいのだろうか。
理想論を掲げるだけでは、私の生きたい人生にはならぬ。
善くありたい。
とは思うけれど、どうすることが善くあることなのかさえ、よくわからない。

ただ、今の自分の課題を直視すること。それの積み重ねであることは否定できないだろう。

まずは、卒業すること。
そして自分の「仕事」をすること。
自分を磨き高めること。

これに尽きるのではないかと思う。
現実を直視していればいずれ、良い出会いに恵まれるだろう。決して絶望せず、細くとも長く生きていこう。そう思う。


追記
そしてやっと好きなことだけをするのも良くないのかなという理由がわかってきたみたいだ。
快だけの人生なんてありえないし、それだけを求めるのは善い人生だろうか。人間として生きることの尊さ。宇宙に思いを馳せるとき、自分は何も成しておらず大きなものによってつくられたものだと感じる。決して信仰深いわけではないのだが、自分という人間のちっぽけさを感じる。別に悪い意味じゃない。頭でっかちになっていた私に、もっと謙虚になりなさいよと、教えてくれるような気がする。

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