私の中の矛盾:繊細という言葉について

こんばんわ。今日は自分の中で感じる自分の矛盾について書く。

自分で「私は繊細だ」なんていうのは、少し恥ずかしい気もするが、いわゆる人一倍敏感な人間だ。

深く考える
刺激に敏感
共感力
小さな刺激に敏感

これによる苦労は省くとして、
かくも繊細でありながら、我ながら、かなりの大雑把人間だ。文章で歴史の細かいこととかを見てるとイライラしてくる。で、まとめる。

もしかしたら小さな刺激に敏感だからこその大雑把さなのかもしれない。
つまり、細かいこと(=刺激)に疲れ、
早々にキャパオーバーし、
もう嫌や!って脳が悲鳴をあげて、降参した故の大雑把さ。
この説明ならなんか整合性は取れる気がする。

とにかく言いたいことは、
「繊細」という言葉によって、決めつけることはできないということ。
自分でもなんでやろうって矛盾にも感じるけど、
相反する二つの性質を合わせて、わたし
である。

繊細って言葉で

生きづらさがなんとなく美化されたり、
giftedみたいに自分だけ特別だとか、
逆に、自分だけ苦しいんだと自己中になったりする。

5人に1人が多いのか問題もあるけど。
少数派であるのは間違いない。
世の中、社交的な人が評価される感じも肌感覚としてはある。
でも30人クラスなら6人はhspがいる。結構多く見える。

まあ、そのうちの少数刺激追求とか外向的な人ならこういう自己矛盾を感じやすいかもしれないね。

世間のhspに対する見方は知らんけど、
ただ、hspは天才とか、純粋とか、逆にめっちゃ生きづらいとか、特別なものと言いたいんじゃない。

言葉で思考が深まること、整理されることもあるけど、
言葉で、思考停止することもあるよねって話。

言葉って奥深いね。

また、筋道からズレた笑

追記、(2022/10/04)
あるブロガーさんの記事を読んだのですが、
ヴィトゲンシュタインがいった、
「君の表現が下手なのではなく、
         言葉自体に限界があるのだ」 
ということば。
言葉には限界があるということを言っているのですが、
これに深くきょうか共感しました。

複雑なこころの動きを一応、言葉にできても、それは安っぽくなる。
的確に言い表せないと感じる。

ある程度までは本を読んだり、ものを書いたりすることで表現力が上がるかもしれない。私はそこまで努力したいとおもう!
でも、やはり限界があるということ。

こういう意味では、外国語を学ぶ意義は深いと思う。日本語にない単語、ニュアンス、さまざまに表せる可能性がある。



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