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Both Sides Now

第94回アカデミー賞にて3部門を受賞した映画「コーダ あいのうた」。Amazon prime videoで見た。たくさん泣いて、たくさん考えさせられた。

あらすじはこちら。

豊かな自然に恵まれた海の町で暮らす高校生のルビーは、両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聴こえる。陽気で優しい家族のために、ルビーは幼い頃から"通訳"となり、家業の漁業も毎日欠かさず手伝っていた。新学期、密かに憧れるクラスメイトのマイルズと同じ合唱クラブを選択するルビー。すると顧問の先生がルビーの歌の才能に気づき…。

映画『Coda コーダ あいのうた』公式サイト
STORYより

Amazonプライム会員の方は、見放題で配信されていますので、是非ご覧になってみてください。

⚠️ここからはネタバレあり、まだご覧になっていない方は、是非一度ご覧になってからお読みくださいませ🙏







まずはこの映画で一番印象に残った場面を紹介したい。

ルビーがお母さんに、自分がろうの子どもに生まれればよかったかどうか聞く場面だ。

<私が ろう者ならよかったと思う?>

お母さんはルビーが生まれてすぐ、耳が聴こえるかどうかの検査をされたときの話をしてから、こう答える。

<その時 祈ったわ>
<ろうの子でありますようにって>

なぜかと聞くルビー。お母さんは言った。

<分かり合えない気がして>

耳の聴こえない母親が、生まれた娘も耳の聴こえない子であるように祈るのはどうしてなのだろう。
もし私だったら、娘が何不自由なく生活できるように、聴こえる子どもに生まれてほしいと望むような気がする。

仲間が増えるから?
気持ちをわかってもらえるから?
それとも聴こえる私にはわからない、聴こえないことによる豊かさがあるのだろうか。それを娘と分かち合いたいと願うのだろうか。

疑問でならなかったのだが、ある記事を読んでストンと腑に落ちた。
コーダをテーマにしたドキュメンタリー映画「私だけ聴こえる」について紹介した記事だ。

「コーダ:CODA」という言葉は Children Of Deaf Adultsの頭文字を取ったもの。耳の聴こえない親に育てられた耳の聴こえる子どもという意味になる。

コーダにとって、第一言語、母語は手話のことが多いだろう。ルビーも、お父さんお母さんお兄さん全員耳が聴こえないから、最初に覚えた言語は手話であるはずだ。「入学したころしゃべり方が変だとからかわれた」というセリフがあることからも、そういう設定だと思われる。

コーダは保育園や幼稚園、学校に通い始めたり、近所のコミュニティの中で人と関わることで、少しずつ言葉を覚えていくのだろう。(それ以前に何らかの社会福祉的な介入があり、言葉のスペシャリストによるコーダ向けの特別なプログラムを受ける機会があったりするのだろうか。このあたりの事情には全く明るくないので、想像だけしてみる。後で詳しく調べてみたい。)

外部の人とのコミュニケーションには母語である手話が使えない。外部で言葉を覚えて帰ってきても、家庭内では言葉を使ったり練習したりすることはできない。

家の中では、聴こえるのは自分だけ。外に出れば、母語を封じられ、しゃべり方をからかわれる。
手話も言語も両方を持っているのに、むしろ両方を持っているからこそもどかしくて、どちらにも居場所がなくて、孤独だという感覚に苛まれてしまう。

先程の記事で紹介されているドキュメンタリー映画「私だけ聴こえる」。コーダの少女が言う象徴的な言葉があるという。

「ろうになりたい」

これが最初に私の感じた疑問に対する、端的な答えだと思った。

ろうの人にしかわからない豊かさがあるのだ。
耳が聴こえることが豊かであるとは限らないのだ。

詳しくはその後の監督へのインタビューでこのように解説されている。長くなるが、記事から引用する。

「聴者の自分からすると、『なぜ聴こえなくなりたいのか?』と不思議に感じましたが、ナイラ(コーダの少女)と話していて、それはマジョリティ側の見方だと気づきました。手話のコミュニケーションは、互いに目を合わせながら表情や体の情報を目で読んでいくとても親密なもの。存在そのものが発している言葉であり、音声や文字よりもすごい量の情報が詰まっていると思えます。ナイラにしてみたら『ろうの世界の方が温かくて居心地がいい』と。そして、自分のことを最も表現できる母語である手話を封じられた"聴こえる世界"は『口だけを動かして目も合わせない冷たい世界』に感じる、と言っていました」

映画「私だけ聴こえる」松井至監督へのインタビューより

「私も聴こえなくなりたい」耳が聴こえない家族と育った少女の言葉
コーダをテーマにした映画「私だけ聴こえる」が映し出すもの

まいどなニュース 2022.7.23掲載、黒川裕生

「私だけ聴こえる」是非見に行きたい。最寄りでの上映は残念ながら終わってしまったようだ。今月中に都内まで行けるかな。難しいかな。


さて、話を映画「コーダ あいのうた」に戻そう。

ルビーのヤングケアラーとしての悲哀にフィーチャーした物語だろうと思って見始めたのだが、間もなくそれはこの映画の主題のほんの一面に過ぎないと知ることになる。
主に描き出されるのは、登場人物たちの置かれた状況の矛盾や、彼らの矛盾した感情だ。

例えばルビーのお母さん。
ルビーが <ろうの子でありますように> <祈った> と言う一方で、実際には聴者として生まれたルビーを通訳として都合よく使っている(ルビーの都合はまるでお構いなしだし、ルビーの通訳に対して給料も支払われていない、家族だから無償で通訳をするのは当たり前だと考えているように私には見える)。

ルビーのお兄さんは、自分を犠牲にして家族の仕事を手伝うルビーに対して <ここにいちゃダメだ 永遠に頼られちまう> とルビーを慮るようなことを言う一方で、兄として家族から頼りにされていないことを強烈にコンプレックスに感じている。お父さんもお母さんも聴者のルビーに頼りきりなことに苛立ちを隠しきれず、<お前が生まれるまで 家族は平和だった> と直接ルビーに恨み節をぶつけたりもする。
ルビーが聴こえる体で生まれたのは、ルビーの意思によるものでもなんでもないのに。

合唱クラブでめきめきと頭角を現すルビー。家族に理解してもらいたいけれど、聴こえない家族には、ルビーが本当に歌が上手いのかどうか判断できない。ルビーは一番褒めてほしい家族に褒めてもらうことすらできないのだ。
これが文章を書いたり、絵を描いたりする才能だったら、容易に理解してもらえただろうに。

日々感じる、矛盾や葛藤。その思いの全てを、歌に乗せる。
クライマックスでルビーが歌うのは「青春の光と影」、原題は「Both Sides Now」。ルビーが雲の、愛の、人生の両面(Both sides)を力強くも美しく歌い上げる様は圧巻だ。

私には、この歌の中に全ての答えが詰まっているように思える。

何事にも何人なんぴとにも両面があるし、あっていいし、その本質なんて、そう簡単にはわからない。捉えたと思っても、それはいつだって幻影なのだ。

素晴らしい歌唱はYouTubeで公開されています(全歌詞、原文、和訳付)。


下書きにここまで書いて保存していた。今日はここに少し書き足してから投稿しようと思う。

最近、あるお祭りで、炎を見た。それは予想を超えて、あまりにも大きく激しく燃え盛っていた。見ているだけで全身を焼かれたし、とにかくその炎が明るく熱すぎて、びっくりして心臓が止まるかと思った。しばらくは目が眩んでしまい、その場に立ちすくみ、身動きがとれなくなった。

お祭りの炎だったんだから、その場限りで忘れてしまうのが一番だ。お祭りってもともとそういうものだし。この頃特に物忘れのひどい私は、どうせあともう少ししたら、細かいことなんてきれいさっぱり忘れてしまう。何とも幸いなことに。
それでも、あの燃え盛る炎の熱さだけは、私の中のどこかに残り続けるではないかと思う。たとえ脳が忘れても、この目が、心臓が、焼かれた肌が、覚えている気がするのだ。

本質なんてきっと一生わからない。捉えたと思っても、それは幻影なのだ。だから私の一生をかけてあの炎を見届けたい。わからないながらも、いやわからないからこそ、少しでもその本質に近づきたい。

こんなことを言って、重たいに違いないけれど、誠に勝手ながらそう思った。


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