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消えゆく文化と職人

前回消えゆく縁起物のお話をしました。時代が移り変わると新しいものが導入され、古く不要になったものが捨てられるのは仕方がないことです。

江戸時代、日本橋には白木屋呉服店がありました。江戸三大呉服店の一つですね。それがのちに東急百貨店になりました。日本の百貨店の先駆的存在です。(※今では知らない方も多いかと思いますが、東京日本橋には東急百貨店があったのです)

戦後すぐに、日本橋東急百貨店の催事場で「全国日本郷土玩具展」が開催されました。1940年代には当然日本全国に郷土玩具を制作している人はたくさんいました。ジャンルで言うと木工木地玩具(こけしとか独楽、一刀彫とかですね)、張子人形、土鈴(お土産の定番でした)、土人形、凧、などです。それが北は北海道から南は沖縄まで、県別に区分けして一堂に展示販売されていました。私が幼稚園の頃は父に連れられ、開店前からの長蛇の列に並び、開店したら一目散に催事場に駆けていき、レアな作品の争奪戦を目の当たりにしてきました。今のように交通も発達していなかったので、地方の玩具が手軽に購入できるのは年に一度のこの催事だけだったのです。

それが1970年代、80年代と目覚ましく発展していく時代の変遷とともに郷土玩具は「古くさくて時代遅れ」というイメージになり、バブル期には大金を転がしているような大企業で働くことが当たり前の世の中になり、職業的にも第1次生産、第2次生産は軽んじられるような風潮になっていました。(筆者の個人的感覚です)

当然作り手の後継者は不足し、1990年代は廃業・廃絶を余儀なくされた職人が非常に多かったような気がします。

その後、日本橋東急百貨店は閉店をし、会場を失った「全国日本郷土玩具展」は同じ東急百貨店の渋谷店に場所を移して再開されましたが、戦後65年目の節目、65回目を最後にその幕を閉じます。

そもそも昔から伝わっている玩具は日本の文化と密接にかかわっていました。前回も書きましたが、人形にするモチーフもそうですし、凧絵の題材も日本古来の物語や地元の有名な武者などが描かれています。「全国日本郷土玩具展」の終わりは、そのような土着的な文化が忘れ去られていく象徴的な出来事だったように思えます。

ちなみに私が見た限りは90年代まで狩野派の流れを汲んだ絵師も普通にいました。凧絵師として活躍していましたが、凧を飾る、あるいは上げる習慣も当然なくなっていますよね。
今になってその方に技術を習っておけばよかったと後悔しています。

私が大学を卒業した1995年はバブル崩壊後で「就職氷河期の始まりだ!」と不景気で先行きを不安視する声も多くありましたが、今に比べてはるかに景気は良く、家業の「張子師」を継ぐよりは大企業に入ってのんびりと楽したい、と思っていました。まだ終身雇用制は崩れていませんでしたしね。

そんな中、我々の親世代、それかもう少し上の世代の職人さんは、信じられないかもしれませんが、徒弟制で丁稚奉公をしながら暖簾分けをして道を切り開いてきている方も多く、私のような考え方の若い人に直面して

「時代は変わった。何も期待しない」と言われたことがあります。

ということは、当然若い世代に自分たちの経験を「伝える」ということも途絶えたのでしょう。(幸いなことに私はかろうじてそんな方々から怒られながら教育をされてきました。いずれはそんなエピソードもこちらで伝えていければと思います。)

今もコロナで無くなっていく職業があるかもしれません。これがまた忘れ去られていく一つの出来事にならないことを祈るばかりです。


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