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48 野良猫と飲む

 そいつが初めて我が家にやってきたのはいつだったか。写真のタイムスタンプを見ると、もっとも古いものが2018年の4月だが、写真に撮っていないだけで、それより半年ほど前からちょこちょこ庭に遊びに来ていた覚えがある。
 それが、ある日を境に家の中にまで上がり込むようになった。腹が減っていたのか、人恋しくなったのか。最初の頃は首輪をしていたので、どこかの家で飼われていたはずだ。けれど、気づいてみれば首輪はなくなっていた。外を徘徊するうちに取れてしまったのかもしれないが、ぼくはこんなストーリーを想像した。

 配偶者に先立たれ、同居してくれる息子や娘もなく、たった一人で暮らす老人。唯一の家族は数年前から飼っている猫。
 しかし、自分ももういつ死ぬかわからない。おそらくこの猫より先にあの世へ行くことになるだろう。わたしが孤独死したあと、こいつだけがこの家に取り残されるのは忍びない。そうなる前に首輪を外してやるから、ミーよ、好きなところへ行っといで──。

 我が家の庭に遊びに来るだけの猫が、家の中にまで上がり込むようになったのと、首輪が消えているのに気づいたのがほぼ同じくらいの時期なので、あながちぼくの想像は間違っていないのかもしれない。
 ともかく、気がつけばミー(深い意味もなく、母がそう呼び始めたのでそれが我が家での名前になった)は、我が家の飼い猫ではないにもかかわらず、なぜかいつも家にいる猫になった。
 必要以上になつくことはなかったが、夕飯を食べていると、横の座布団の上で丸くなって寝ていたりする。猫のくせに、我々が食べているアジの干物を欲しがったりしない、躾のちゃんとされた猫だった。
 猫を愛でる、という喜びだけを無責任に享受させてもらうのは申し訳ないので、カリカリの猫エサを買ってきて、定期的に与えてはいた。水も専用の茶碗を縁側に置いておき、たまには牛乳をやったりもした。
 以前、猫を飼っていたときの猫用トイレはもう処分してしまったが、新たに出入りしているこいつのためにまた買うというのは何か心理的なハードルを感じて、買おうという決断には至らなかった。そのため、夜は外におっ放してやるし、昼間も縁側はサッシを開け放してあるので、尿意・便意を感じれば勝手に出ていくが、何度か家の中で粗相をされたこともある。それはまあ野良猫のいいとこ取りをしている以上は受け入れるしかないのだろう。

「必要以上になつくことはなかった」と書いたが、実はぼくには異常になついてくれて、お茶の間でぼんやり晩酌していると、すぐに膝の上に乗ってきた。冬はいつもユニクロのフリースを部屋着にしているから、その上に乗っかるとフカフカで気持ちいいのだろう。こちらもグラスを右手に持ち、空いた左手では猫の背中を撫でる。あらゆる酒のつまみの中で、「猫を撫でる」というのは最高のつまみではないか。猫晩酌。

 猫はときどきお土産を持ってくる。ミーが最初に持ってきたのは小さめのネズミだった。ある朝、縁側に出てみたら、踏み石のところに横たわっていた。夜のうちに捕まえて、散々弄んだのだろう。もし縁の下なんかに放置されていたら、こちらが気づかないうちに腐敗してウジが湧いて、ハエがブンブン飛び交うところだった。目に見えるところに捨て置いてくれたので助かった。すぐに新聞紙でくるんで燃えるゴミに出した。
 カナヘビは格好の遊び相手のようで、しょっちゅう庭に落ちていた。これらは花壇に穴を掘って埋める。
 ミーが家の中まで上がり込むようになったのはちょうどコロナ禍が始まったのと時期を同じくしていたので、家に入れるときはけっこう入念に消毒した。消毒といっても、手足を除菌して、身体を雑巾で拭くくらいだったけど、何もしないよりはマシ。そのおかげか、遊んでいて何度か引っ掻かれたけど、幸い少しミミズ腫れになるだけで、それ以上のことはなかった。娘が瞼を引っ掻かれたときはさすがに眼科へ連れて行ったけど。

 2022年になると、家に来なくなることが続くようになった。我が家のように、他にも緩やかに相手をしてくれる家を見つけたのか、それとも人間の家に飽きたのか。見たところかなりの老猫だったから、残された時間を自由に生きることにしたのかもしれない。
 2022年、7月24日の朝。「ミーは昨日も来なかったなあ」と庭に出てみると、久しぶりに死んだネズミが落ちていた。頭から尻尾の先まで25センチはある特大サイズだ。あいつの仕業であるのは間違いない。そして、それ以来、ミーは姿を見せなくなった。
「いままでお世話になりました。つまらないものですがどうぞ」
 最後のお礼のつもりなのだろうけれど、ぼくは新聞紙にくるんで捨てた。


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