見出し画像

20 SE30とエズラブルックス(下北沢編03)

 それまで積極的には飲もうと思ったことがないウィスキーを飲むようになったのも、下北沢に住み始めてからのことだ。きっかけは、アパートの近くにあった「プライベート・バー」という店。 ウィスキーを愛飲しているわけでもない人間が、なんでバーなんかに行こうと思ったのかはわからない。ちょっとカッコつけたかったのかな。一人暮らしを始めて、やっと大人になれたような気がしたのは覚えてる。仕事をすることで現金を稼ぎ、自分のお金で家賃を払い、自分のお金で食材を買って自炊をする。掃除も洗濯も自分でしなきゃどうにもならない。そのかわり、お酒は誰に遠慮することなく好きに飲んでいい。
 アパートの部屋で缶詰をつまみに缶ビールを飲むのが悪いことだとはまったく思わないが、せっかく自立した大人の男になれたなら、やはり外で飲まなきゃ。それも安い居酒屋ではなく、ちょっといい感じの店で。薄暗い照明の店内に、低めの音量でモダンジャズが流れるような、シックなバーのようなところで。
 前回書いた下北沢「王将」の手前を右に入ってすぐのところに、その店はあった。いわゆるバー(あるいはスナック)のような場所へ足を踏み入れた経験は、高校時代にバイトしていたペンキ屋の親方に連れていってもらった「梓」と、ファミコン神拳時代にミヤ王先輩に連れていってもらった六本木の数軒くらいだった。
 下北沢には老舗のバーが多い。松田優作が常連だったという「LADY JANE」、近藤房之助が経営する「STOMP」、シモキタでも有数の老舗である「トラブルピーチ」。だが、そういう歴史ある店に足を踏み入れるのには、なかなか勇気がいる。
 でも、ぼくがプライベート・バーを見つけたときは、まだ開店したばかりだったらしく、常連がほとんどついていなかった。店の外から覗いてみてもカウンターに誰も座っていないことが多く、初心者のぼくでも入りやすかった。
 それと、よく覚えているのは、カウンターの端っこにMacのSE30が置いてあるのが見えたことだ。
 当時、ゲームフリークは法人化したばかりで、ぼくは契約社員として会社に席を置かせてもらっていた。会社は社内の業務を円滑にするため、スタッフ全員に当時発売されたばかりのClassicを支給してくれた。これは名機と謳われたSE30を安価で復刻したモデルで、まだそれほど大きな利益を上げていなかったゲームフリークでも、スタッフ全員に支給することが可能だった。
 フリーライターになったばかりの頃、『XANADU』を遊びたくてPC-8801を買ったけれど、うまく使いこなすことができずにパソコンアレルギーを起こしていたぼくも、Macとの相性はすごくよかった。仕事でMacのClassicを触ってみて、あっという間にその虜になった。だから、たまたま通りかかったバーの窓から中を覗いたとき、カウンターの端にSE30がちょこんと置いてあるのを見て、吸い寄せられるように重いドアを開けてしまったたのだ。

「こういうお店は初めてなんです」
「すぐ近くのアパートに住んでます」
「Macが好きなので思わずドアを開けてしまいました」

 まずはそんな話をして、マスターと打ち解ける。聞くと、マスターはデザイナーだったかエンジニアだったか忘れたが、何かMacを使う本業が別にあり、副業としてバーを始めたのだという。
 そんな感じでカウンターに座ったはいいが、こちらはバーの素人だ。いざオーダーするという段になって、何をどう頼んでいいのかがさっぱりよくわからない。ハードボイルド小説も少しは読んでいたので、マティーニとかギムレットなんてカクテルの名前くらいは知ってるが、それが何の酒で何を混ぜたものなのか。中身がわからないものは怖くて頼めない。かといって、こういう店で「トリスを水割りで」なんて言ったら笑われるだろう。
 でも、大丈夫。正直に聞けばいいのだ。
 こういうときにいちばんカッコ悪いのは、通ぶって知ったかぶりをすること。知らないなら知らないで、ちゃんとそう申告しよう。そのうえでマスターに教えを乞うのだ。初心者が店に来て喜ばない店主なんていないよ。

「普段、ウイスキーはほとんど飲まないんです」
「少し前にスコッチを飲んだら、あまり口には合いませんでした」
「苦いものは好きです」
「酒は強い方なので、多少キツくても全然平気です」

 こちらの情報をいくつか話しているうちに、マスターはバーボンを勧めてくれた。バーボンメニューには「アーリータイムズ」「I.W.ハーパー」「ジム・ビーム」「フォアローゼズ」といった、ぼくでも聞き覚えのある名前が並んでいたが、せっかくだから知らない名前の酒に挑戦してみようと思って、初めて目にする「エズラブルックス」というやつをチョイスした。
 これを、マスターは「エズラはソーダも合うので、初めてならソーダ割りはいかがですか?」とアドバイスしてくれた。いいじゃない、いいじゃない! ソーダ割り、つまりハイボールね。これならウィスキー慣れしてないぼくでも飲みやすいだろう。
 で、このエズラのソーダ割りがすごく気に入ってしまったんだな。以後、ぼくはこの店とエズラのソーダ割りがすっかり気に入り、足繁く通うようになるのだった。
 エズラ以外にも「メーカーズマーク」やモルトウィスキーの「ブラントン」、アイリッシュウィスキーの「ジョン・ジェムソン」なんかに浮気したこともある。マスターが「若いアーティストに場を与えようと思って」と言って、50号くらいあるでかいイカの絵画を壁面に飾っていたとき、ぼくはその絵に惚れ込んで、30万円だというその絵を思わず買ってしまいそうになったこともある(ギリギリで踏みとどまった)。プライベート・バーでの思い出を書いているとキリがないね。
 この店は、それから数年後に少し先の茶沢通りに移転し、昼は喫茶店、夜はバーという営業形態に変えて店名を「ウィスキーキャット・ビーンズキャット」と変えた。その後、マスターは店の権利を別の人に譲り、ご自身は小樽へ移住するとか言っていたはずなので、いま現存するその店に行っても彼はもういない。

 下北沢編、まだまだ続きます。

気が向いたらサポートをお願いします。あなたのサポートで酎ハイがうまい。