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19 王将の幻のとりうま煮(下北沢編2)

 それまで、一人で酒を飲みに行くなんてことはなかった。飲むときは、たいてい友達を誘うか誘われるかして、一対一のサシで飲む。あるいは何人かで連れ立っての飲み会になる。だから、家で飲むことも滅多になかった。でも、下北沢で初の一人暮らしを始めてから、一人で飲むことが自然と多くなっていった。
 学生の頃から会社員時代にかけてはそれなりにモテたりもしていたんだけど、フリーライターになった途端にモテなくなった。金もなく、地位もなく、将来性もない自営業の身では仕方ない。で、彼女がいないと、夜って退屈じゃないですか。だから、つい夜の街にふらふらと出掛けていってしまう。そして、そんな寂しい独身男に、下北沢という土地はとても優しい。一人でも飲める店がいくらでもあるから。
 最初は「餃子の王将」のお世話になった。
 仕事を終えて、夜に下北沢に帰ってくる。駅からテクテク歩いてアパートへ向かう途中に、餃子の王将はある。そこでラーメンとか餃子をつまみに瓶ビールを飲むのが、お決まりの晩酌になった。安くてうまい。財布に余裕があるときは、野菜炒めも追加して紹興酒を飲んだりもする。
 だが、そのうち店で飲食するよりも、テイクアウトする方が安上がりなのではないかと気がついた。なにしろ下北沢の王将と自分のアパートは徒歩で2分ほどの距離なのだ。つまみだけをテイクアウトして、酒はコンビニで買って家で飲む方がくつろげるし、映画を見ながら飲むことだってできるのだ(当時、流行し始めたレーザーディスクプレイヤーを買って、めちゃめちゃLDソフトを集めていた)。
 ぼくは若い頃から少食なので、夕食にごはんは滅多に食べない。つまみとアルコールだけで満足してしまう。だから、下北沢での一人暮らし時代も、最初は、王将で定番の餃子や野菜炒めを買って帰っていた。仕事に疲れて栄養が足りてないと感じるときは、レバニラ炒め。だいたいこのあたりをローテーションする。
 が、あるとき店頭に掲げられたテイクアウトメニューの中に「とりうま煮」という文字を見つけた。メニュー名から味は想像がつかなかったのだが、気まぐれで頼んでみた。これをアパートに持って帰って食べてみる。
 いや、うまかったなぁ~~~。
 白菜、ニンジン、ネギ、タケノコ、あとキクラゲなんかも入っていたかな。それと鳥の唐揚げをザクザクと切ったやつ。これを中華鍋で炒めて、八宝菜のようにとろみをつけたもの。ここに、何かわからないけど独特の隠し味があって、なんとも言えない旨味を醸し出していた。おまけに熱い。高温の油で炒めているだけでなく、片栗粉でとろみもつけてあり、それを発泡スチロールのテイクアウト容器に入れる。で、徒歩2分のアパートに着いてすぐに食うのだ。気をつけないと口腔内を大火傷するくらい熱い。でも、だからこそ冷たい缶ビールや缶酎ハイのうまさが倍増するのだ。ぼくはこれがメチャメチャ気に入って、1990年から1993年くらいのあいだは、ほとんど毎日こればっかり食べていた。本当に、いま思い出してもあれは幸せな日々だった……。
 と過去形で語っているのは、もう王将のメニューから「とりうま煮」は消えてしまったからなのだ。あんなにうまかったのに。なんでやめちゃったんだろう。というか、そもそもぼくは下北沢支店以外の王将に行ったことがなかったので、あれが定番メニューだったのかすら疑わしい。もしかしたら、下北沢店だけのオリジナルメニューだったのかもしれない。
 のちに酒場ライターのパリッコくんと仲良くなって、石神井公園の「ほかり食堂」という町中華へ飲みに行った。そこで何の気なしに肉豆腐を頼んでみたら、これが一般的な肉豆腐とは全然違って、肉と豆腐と野菜の中華炒めだったんだけど、味が、味が、味が、王将の幻の「とりうま煮」とほとんど同じだったんだな。これは衝撃的だったなー。
 そんなほかり食堂も、もう閉店してしまった。本当に、飲食店というのは儚いものだ。
 下北沢編、まだまだ続きます。

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