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01 ゆりかごから酒場まで

 ぼくが人の親になったのは、2000年の7月だった。
 予定日は8月だったが、妊娠中の定期検診で妻がとある難病を抱えていることがわかり、少しでも母胎への負担を軽減するために、予定より一ヶ月早く帝王切開で取り出すことになったからだ。
 手術を開始する前の面談で、ぼくは担当医から「母子ともに命の保証ができない」と告げられ、承諾書にサインをすることになった。他に選択肢はなかった。
 幸い、未熟児ながらも娘は生まれ、妻も命を落とすことはなかった。ただ、未熟児の娘はもちろん、妻も体力の消耗が激しく、出産後も二人はしばらく入院することになり、ぼくは一人で家に帰った。
 子供が生まれたら、乾杯しよう。
 最初は何がいいかな? やっぱりシャンパンかな?
 人生でそう何度もあるとは思えない祝い事だから、高級なやつを開けたいね。
 ドンペリってクラブとかで入れたら高いけど、量販店とかで買えば安いのでは?
 そんなふうに思っていたが、現実は思った通りにはならなかった。
 結局、二人が退院して当時の住まい(昭島市にあった妻の実家)に帰ってきたのは、出産の日から約一ヶ月が過ぎた頃だった。いちおう、それぞれの家族や親戚が集まって祝ってくれたが、中途半端な一ヶ月のブランクがあったせいで、乾杯の酒は微妙な味がした。何より、手術前に医師から言われた言葉が重くのしかかっていた。
「手術が成功して、母子ともに無事だったとしても、奥様の病気は心肺移植をする以外の治療法がないんです。お子さんが小学5年生になるくらいまで生きらればいい方ですよ──」
 もちろん、娘が無事に産まれてくれた喜びはある。けれど、それ以上にこれから先への不安で胸がいっぱいだった。どんな酒を飲んでも苦い味しかしなかった。

 いまから60年前、ぼくが生まれたときの父は、どんな祝い酒を飲んだのだろうか。飲んでない可能性もある? いや、それは絶対ない。あの酒好き親父が飲まなかったはずがない。
 父はまず男の子を熱望していた。戦前の米作農家に生まれ、家父長制の強いなかで育ってきている人間が、自分の後継たる長男を求めるのは無理もない。
 父は、自分に息子が生まれたら好きな野球選手の名前をとって「昭仁」にするんだと張り切っていた。男の子が生まれると信じて疑わなかったので、女の子が生まれたときの名前は考えてもいなかったらしい。だから、先に姉が生まれたとき、出生地の町名をそのまま名前にしたほどだ。子供の頃、姉はいつもそれで憤慨していた。
 そして2年後、待望の長男を得る。それがぼくだ。そりゃあ、祝い酒くらい飲むでしょ。父は2015年に亡くなっているが、生前に聞いておけばよかったな。「ぼくが生まれたとき、どんな気持ちだった? 何の酒飲んだ? どんな味がした?」って。

 ぼくが酒飲みになったのは、間違いなく父の遺伝子だ。いや、それだけじゃないな。うちは冠婚葬祭なんかで親戚が集まると、父方も母方も一人残らず大酒飲みだから、当然のように大宴会が始まる。先に書いたように家父長制の根強いコミュニティゆえ、女衆が率先して飲むことはなかったが、宴もたけなわになってくれば、なし崩し的に男女問わず飲んでいた。現在86歳になる母は、いまでも缶ビールが好きで買い置きしている。

 今回から始まった酒エッセイのシーズン4は「ゆりかごから酒場まで」と題して、ぼくの酒との関わりと、その魅力に没入していく人生の光景を、時系列に従って振り返っていきます。毎週土曜のお楽しみ、まだしばらくは続きますのでどうぞご期待ください。

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