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05 スキーの先生の酒を盗んで飲む

 高校生になって、いよいよ本格的に酒を飲むようになる。
 といっても、家で夕飯のときに晩酌を、というわけにはいかない。うちの親父は自分が酒飲みだから、未成年の息子が酒に手を出しても怒るようなことはなかった。さすがにタバコは露骨に身体へ悪影響を及ぼすし、うっかり火の不始末でもしたら新築したばかりの家を失う。だから、「酒はいくら飲んでもかまわねえ。でもタバコはダメだ。少なくともオレの眼の前では吸うな」というのが口癖だった。
 酒を飲むことは見逃してもらえたこともあって、高校生のぼくはちょいちょい家で飲むようになる。タバコ同様、親父の目の前で飲むことはほとんどなかったが、土日の暇なときなどは、近所の酒屋でビールを買ってきて、昼から一杯やることが増えていった。中学までは、日曜のおやつはポテトチップにコーラというのが定番だったが、高校生になってコーラはビールに変わった。
 高校時代の前半は、ロック野郎の飯田くんと遊んでばかりいたが、後半になると大工のセガレの遠山&鳶のセガレの千葉くんと遊ぶことが多くなった。職人の家だからというわけではないが、こいつらがまた酒飲みだった。
 週末は3人のうちのどれかの家へ集まっては、酒盛りをしていた。
 飲むのはやはりビールが多い。でかい樽生を買って飲んでいたような記憶があるが、調べてみるとアサヒビールが日本初の3リットル入り「ミニ樽」を発売したのは1989年なので、ぼくが高2のときにはまだないはずだ。だから缶ビールを数本買い込んで飲んでいたか、あるいは高3以降の記憶が混ざっているのかもしれない。
 つまみは乾き物ばかり。ポテトチップや柿の種のようなスナックは安くて量も多いのでありがたいが、飲んでるうちに少しは濡れ物も欲しくなってくるので、そいうときはサバ缶やチーズ鱈なんかを買いに走った。これらをローテーション食いする。つまみだけバクバク食う奴は嫌われる……なんて話は、椎名誠さんの青春記『哀愁の街に霧が降るのだ』にも同様のエピソードがあったな。

 高校時代の酒飲みトリオは、先生の家にも押しかけて飲んだ。先生といっても、正式な教員ではない。修学旅行で出会ったスキーの先生だ。
 ぼくが通っていた都立の某工業高校は地域でも有名な不良校で、細かい描写は避けるが、ようするに『ビー・バップ・ハイスクール』だった。ぼく自身は不良にはなりきれない中途半端な学生だったけれど、クラスのうち半分以上は気合が入りまくった不良少年で、学校はかなり荒れていた。
 それで、ぼくらが修学旅行へ行く段になったとき、関西方面へは行けないことが判明した。そう、過去の先輩方が散々と乱暴狼藉を働いてくださったおかげで、修学旅行先の定番である京都・奈良には、ぼくらを受け入れてくれる旅館が見つからなかったのだ。
 結局、ぼくらの学年は関西から一転して東北方面、それも神社仏閣の見学ではなく、蔵王までスキーを体験しに行くことになった。何を「修学」するというのだろう……。
 で、修学旅行での騒動は本エッセイの主題から離れすぎるので、いつか別の機会に書かせてもらおうと思うのだが、ぼくらはなぜか学校が雇ったスキーのインストラクターの先生と仲良くなってしまったのである。
 先生は、たしか体育会系の大学生で、夏休みの間はスキーのインストラクターのバイトをしていると言っていた。大学生だからぼくらとそう年が離れているわけでもない。しかもお調子者だったので、バカなぼくらとなんとなく気が合った。そのうえ、北松戸のアパートに住んでいるという。
 千葉の家は亀有、遠山は金町、ぼくは松戸。みんな常磐線の沿線だ。そこにきての北松戸。そりゃあ「遊びにおいでよ!」ってことになるさ。
 いざ実際に遊びに行ってみると、リア充っぽいスポーツマンの大学生と、どう考えても大学進学なんてするはずのないボンクラ高校生の我々の間に、修学旅行の思い出の他にたいした話題があるわけもない。結局、ぼくらは先生がトイレに入るたびに棚の上にあったサントリーオールドの瓶を開けては、ちょいちょい回し飲みをして、半分ほど空にしたところで帰ったのだった。

※中央右寄りの水色スキーウェアが先生。右端の白いウェアが千葉、先生から左へ三人めの紺色が遠山。左端の白いのがぼく。

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