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19 名古屋の夜に磨かれた棒

2012年の冬。クルマで名古屋へ向かった。2泊3日の旅である。朝8時に家を出て、国道6号線をひたすら南下し、四つ木から首都高速に乗る。松戸にある我が家から中部・関西方面へ向かう場合、これが厄介だ。朝の首都高はとにかく渋滞する。首都高を抜けて用賀で東名に乗るまでに2時間も消費してしまった。東名に乗りさえすればあとは早いのだが、結局、名古屋に着いたのは家を出てから6時間後の14時だった。

名古屋を訪れた目的はブックオフ巡りだ。当時経営していたマニタ書房の商品を補充するため、古本を仕入れに行ったのである。初日はブックオフを6軒まわり、二日目は8軒まわった。最終日も3軒まわってから帰途につくというハードスケジュールだ。

2泊の宿は、伏見と栄の中程にあるビジネスホテルをとった。クルマ移動なので名古屋駅の近くである必要はないが、なぜこんな微妙な場所なのか。それは行きたい居酒屋が伏見にあったからだ。酒飲みにとって、それは十分すぎる理由になる。

初日の夜は、成り行き任せで適当に見つけたもつ焼き屋に入った。失敗というほどのことはなかったが、かといって印象に残るような店でもない。そんなことはよくある。重要なのは、二日目の晩のために下調べして、見つけておいた店「大甚」だ。

大甚は明治40年創業の老舗の大衆居酒屋で、地元民はもちろん、日本全国から酒飲みが集まってくる店として知られている。かくいうぼくも、噂を聞いていたこの店の暖簾を一度はくぐってみたかったのだ。

二日目のことだから、昼間にブックオフを8軒まわったあとのことだ。基本はクルマでの移動とはいえ、途中で気まぐれに名古屋城を見物し、天守閣まで登ったりしていたので、かなり疲れがたまっている。そんな旅の汗をホテルのシャワーで流し、いざ大甚へ。

大甚本店のある伏見の交差点は、ホテルから徒歩で3分も歩けばすぐだ。創業時の建物は戦災で焼かれ、戦後にバラックで再建したそうで、いまの場所に移って来たのは1954年とのこと。店構えは前面に黒い木材が問屋格子(といやごうし)に組まれ、外からでも店内の様子がかすかに見える。

うっ、入りにくい……。

あまりにも老舗の風格がありすぎて、よそ者のうえに一見の客であるぼくは、引き戸に手をかけるのがためらわれた。何より、格子を通して見える中の様子が「常連さんでほぼ満員」なのだ。これは入っていきにくい。2012年ということは、いまからちょうど10年前。ぼくは50歳になったばかり。いまほど図太くもなかったのだ。

入るか、入らぬかと、逡巡しているうちに、ふと思い出した。そうだ、本店のある広小路通から南に一本入った路地に大甚中店、つまり支店があるのだ。そこでもいいじゃない。旅先では臨機応変が大切。

行ってみると、こちらは土蔵風の造りの店で、店内は見えない。外から見えないということは、中からもこちらが見えないということだ。見えないのをいいことに、ぼくは入り口に耳をつけ、中の様子を伺った。

おや? さっきの本店の喧騒とはうって変わって、こちらはほとんど物音が聞こえない。やってんのかな? でも、でっかく「酒」とだけ染め抜かれた暖簾は出ている。ぼくは混雑している店が苦手なので、いっそこの方が入りやすい。思い切って開けてみた。

本店とそう変わらない広さの店内に、老夫婦らしき客がひと組と、初老のひとり客だけ。奥にはテレビがあるが、音量は控えめ。老夫婦は無言で飲み食いしているし、ひとり客も当然喋らないので、店内はシーンとしている。

最高だ! 旅先の酒場で得られる静寂ほど貴重なものはない。経営者にとってそれはいいことではないのかもしれないが、ぼくにはこれこそがオアシスだ。

さっそく空いているテーブル席に着くと、瓶ビールを注文する。大甚では、料理は皿に作り置きされたものがカウンターに並んでいるので、そこから好きなものを自分で選ぶシステムだ。このときは、たしか煮穴子とポテトサラダだった。

特別「うまいっ!」と叫ぶようなもんじゃない。普通の味。でも、それがいい。

黙々と瓶ビールを飲み、ポテサラを食べ進む。穴子がまだ半分残っているうちに、燗酒に切り替えた。日本酒に対するこだわりは一切ないので、あるものをいただく。猪口に菊正宗と書いてあったので、きっとそれなのだろう。

旅先での静かな時間がとても愛おしい。より寛ぐために組んでいた足を伸ばそうとしたら、テーブルの下の横棒に靴先がトンと当たった。覗き込んで見ると、その棒には何人もの客が足を乗せるのだろう。何人もの酔客の靴底で磨かれ、すり減り、テカテカになっていた。

酒場の顔は、店構えだったり、暖簾だったり、名物店主だったり、様々あると思う。けれど、大甚中店の顔は間違いなくこの棒だと、ぼくは確信したのだった。

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