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11 酒の肴は廃盤歌謡曲

 会社員になって金回りが良くなったことで、学生時代から細々と続けていたレコードコレクションは本格化していく。最初は洋楽のロック。そこからプログレ、テクノ、ニューウェーブを経て、日本のインディーズパンクを集め始める。
 就職した製図会社は始業が朝8時半と早いが、その分終わりも早く、残業しなければ午後5時半には退社できる。終業後でも中古盤屋はまだやっている時間だ。毎日のように都内の中古盤屋を覗いてまわった。
 買い込んだレコードは、帰宅してから夜遅くまで自室のステレオで聴く。当然、酒を飲みながらだ。酒代を節約するために、安いウィスキーを買って、水割りにして飲んでいたように思う。酒の肴は、実家暮らしなので冷蔵庫を開ければ何かしらの惣菜はあった。柿ピーとかを買ってきて飲むことも少なくなかった。

 すでにあちこちで書いたことだが、1981年から歌謡曲に目覚めた。子供の頃『8時だョ! 全員集合』のゲストで歌っているのを見た森山加代子の『白い蝶のサンバ』のことを唐突に思い出し、それが無性に聴きたくなったぼくは、蒲田にある廃盤歌謡の専門店「えとせとらレコード」を訪問する。そこでお目当ての『白い蝶のサンバ』を無事に入手したわけだが、同時に手に取った歌謡曲を探求する同人誌『よい子の歌謡曲』で、ぼくは歌謡曲の深淵に触れ、一気に歌謡曲マニアの道へ足を踏み入れていくことになる。
 廃盤生活の中でとくに思い出深いのは、当時、えとせとらレコードで店長をしていたTさんとの交流だ。不思議と気が合ったぼくらは、店を終えてからしょっちゅう飲みにいく仲になる。もちろん話題は歌謡曲を中心とした音楽のことだが、お互いアングラカルチャー好きで(当時は“サブカル”なんて表現はなかったはず)、変な映画や変なパンクバンドの話をよくしていた。
 あるとき、そんなぼくらの様子を見て、えとせとらレコード社長の新井精太郎さんが「お前ら雑誌を作れ」と言った。えとせとらが発行元となり、Tさんを編集長として雑誌を作っていいというのだ。そのための資金も社長が出す。店の近くに編集室としてアパートも借りてくれた。
 まあ、溜まり場になりますわな。ぼくとTさんの他に副店長も巻き込んで、ぼくらはそこで何か創造的な仕事をするわけでもなく、連日のように飲み会を開いた。編集費の大半は酒とつまみに消えた。
 一年くらいが経過した頃だろうか。なんとか原稿が集まって、雑誌は完成した。タイトルはTさんが『生』と付けた。どのような意味が込められているのか説明を受けたかもしれないが、いまとなっては覚えていない。
 新井社長の目論みとしては、店(えとせとら)の商品をアピールするためのもの、廃盤歌謡曲界隈を盛り上げるためのものを作らせるために資金を出したはずだが、出来上がってきたのは歪なサブカル雑誌もどきだった。叱られはしなかったが、相当がっかりしたに違いない。店にも置いてもらったが、ちっとも売れなかった。

 Tさんとぼくが『生』を作る際の目標にしていたのは、当時、勢いがあった『よい子の歌謡曲』や『東京おとなクラブ』『突然変異』といったサブカル雑誌だ。なかでもぼくは『よい子の歌謡曲』に傾倒しており、原稿を載せてもらうためにせっせと投稿を繰り返していたが、なかなか採用されるには至らなかった。その鬱憤の吐け口として『生』を作っていた側面はある。
 結局、『生』はなんの話題にもならずに自然消滅したが、それとほぼ同じタイミングで、ぼくの投稿が『よい子の歌謡曲』に掲載されるようになる。幾度かの投稿掲載を経て、中野にあった編集室(これもアパートの一室)へ遊びに行くようになり、そのまま泊まって行くことが多くなった。
 ここから、ぼくの本格的な歌謡曲コレクションが始まっていく。それまでは日本のインディーズパンクばかり集めていたが、『よい子の歌謡曲』や高護さんが編集していた『リメンバー』の影響で、古い歌謡曲、変な歌謡曲も積極的に集めるようになる。
 えとせとらがレコード提供した『タモリ倶楽部』の1コーナー「廃盤アワー」の影響で、廃盤歌謡曲の値段は高騰していたが、それはあくまでも有名歌手の名曲に限った話であって、ぼくが好んで買い集めていた無名な歌手のイロモノ歌謡などはだいたい1枚100円なので、入れ食い状態である。
 伊集院光さんのラジオ番組でかけた『腹話術エレジー』は数寄屋橋ハンターで100円だったし、『変な串カツ教室』も100円、『オートバイ野郎』も『火縄銃でボーン』も全部100円で買った。『ハーブレイク太陽族』や『マッチョドラゴン』なんていまではかなりのプレ値が付いているが、当時は新譜で買えたから600円とか700円とかそんなもんだ。酒と音楽とあとちょっと古本くらいしかお金の使い道がなかったぼくは、毎月100枚単位でレコードを買っていた。
 ビール、レモンサワー、ウイスキーと様々なお酒を飲んできた青春時代だが、いつも酒の肴としてそばにあったのは音楽だった。

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