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07 蒲田の老舗のゲロ製造タワー

 高校を卒業し、製図の専門学校に進学すると、ぼくの飲酒はいよいよ本格化する(まだ未成年です!)。
 東京は蒲田にある日本工学院。ぼくが進路に選んだのは1年制の立体製図科というところで、たった一年間のキャンパスライフだったけれど、それでも都立の工業高校で男子校というビーバップなハイスクール時代とは雲泥の差で、クラスの約半分が女子という華やかさに心は浮かれていた。
 ぼくは東京生まれの東京育ちだけれど(この時点では千葉県在住だった)、こうした学校には地方からの上京組も多く、彼らには「東京での一人暮らし」という解放感もあっただろう。当然のごとく、入学早々から新歓コンパや飲み会が開催されるのだ。
 もう覚えていないくらい飲んだ。蒲田の駅から日本工学院へ至る道には工学院通りという名前が付けられており、沿道には喫茶店や定食屋、レストランと並んで、工学院の学生をターゲットにした安い居酒屋もたくさんあった。なかでも印象に残っているのは「鳥万(とりまん)」だ。
 ネットで調べると鳥万は創業が1964年。今年で創業58年になる蒲田でいちばんの老舗酒場と言われているが、ぼくらが通っていた1979年は、まだ創業15年だったことになる。でも、当時からやけに老舗の風格がある店ではあったな。5階建てのビル全部が居酒屋で、ぼくらは大人数での宴会で利用することが多かったので、3階とか4階の大座敷で飲んだ記憶しかない。
 繰り返しになるが、アイロンパーマに学ラン姿の不良に囲まれて過ごした暗黒の三年間を経て辿り着いた夢のキャンパスライフである。女の子と一緒に飲めるなんて、まさに夢を見ているようだった。
 この頃おもにぼくらが飲んでいたのはビールだ。70年代の後半に「さつま白波」で第一次焼酎ブームが起こるのだが、世代的にそれには微妙に間に合っていない。学生時代のぼくらが飲み会で注文するものといえば、何を置いても「とりあえず生中」。生ビールの中ジョッキだった。大人数での宴会の場合、生ビールだと配膳が追いつかない懸念があるので瓶ビールを頼むこともあったとは思うが、それでも記憶に焼き付いているのは生中だ。まだ18、19のくせして、みんな中ジョッキで乾杯をしながら、大人になった気分を謳歌していた。
 老人になったいま、ビールなんてうまいのは最初の一杯だけで、以後は腹が張ってしゃあないのでお代わりするなんて無理だが、当時は生ビールだったらナンボでも飲めた。いや、ちょっと見栄張ってしまった。ナンボでも飲めたは言い過ぎだな。まだアルコールへの耐性がそれほど身に付いているわけではないので、ガブガブ飲んだ代償として泥酔し、トイレに篭ってゲロを吐いたりしていた。駅のベンチでうなだれている若者を見ると、当時の自分を思い出す。
 飲み会でのつまみは何が主だったかな。ネットでいまの鳥万のメニュー画像を見てみても、さすがに40年前のものとは変わっているはずで、そのラインナップには覚えがない。鳥万といえば鳥料理のはずだが、焼き鳥は値段のわりに嵩(かさ)が足りないので、学生のコンパには向かない。おそらく、枝豆やポテトフライ、焼きそばといった、安くてドサッと出てくるものばかりを頼んでいたのではあるまいか。
 若い頃のぼくは泊まり癖があって、酒を飲むとすぐに友達のアパートに上がり込んでいた。蒲田から自宅のある松戸まで、酔っ払って帰るには遠いからということもあるが、一人暮らしを始めた連中も、自分の城(笑)に友達を招きたいという欲求があったのだろう。学生時代はそれでも外泊する回数は多くなかったが、やがて学校を卒業して製図の会社に就職すると、ぼくの外泊癖は加速していく。

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