26 明大前と立川の再開発
1995年に、仕事の都合で明大前に住居を兼ねた事務所をかまえることになった。不動産屋に飛び込んで、駅から徒歩5分程度で甲州街道沿いにあるマンションを借りた。アシスタントも一人雇うことが決まっていたので、自分の住まいと作業場を分けられるよう、2LDKの物件を選んだ。
明大前には2年暮らした。いま、これを書きながら当時の酒事情を思い出しているのだが、ほとんど記憶がない。ほぼ毎晩のように酒は飲んでいたはずなのに、あの町での酒場の思い出が頭に浮かばないのだ。唯一思い出として刻まれているのは、おでん屋台の「うさぎや」くらいのものだ。
なぜだろう……? と考えるまでもなく、答えは簡単。飲むとなったら相も変わらず下北沢にばかり行っていたからだ。明大前から下北沢までは井の頭線でたったの3駅。終電を逃したって歩いて帰って来られる。
他にもうひとつ理由があって、明大前に事務所を借りた直後に妻と出会い、夕飯は彼女と一緒にとることが多くなった。彼女はいつもクルマで行動する人だったから、ぼくは助手席に乗せられ、明大前以外の町に連れ回された。
そんなわけだから、明大前での思い出はあんまりない。
そして2年後。結婚を機に拝島にある妻の実家で暮らすことになる。明大前のマンションを引き払い、事務所は新たに立川のマンションを借りた。新婚生活が始まったのだから、夕飯は家で食べればいいのだけれど、滅多に家では食べなかったな。仕事を終える時間が遅いという理由もあるが、家で飲むより外で飲むのが好きだったからだ。
とはいえ、立川を拠点にするとさすがに下北沢まで飲みにいくのは億劫で、夜は立川でばかり飲んでいた。立川にはウインズ(場外馬券売り場)もあるしパチンコ屋も多い。つまりギャンブルタウンだったので、北口も南口も酒場天国のようだった。雇っていたアシスタントはそんなに酒好きでもなかったが、ちょいちょい仕事終わりで酒に付き合わせた。
立川の大衆酒場といえば、もっとも有名なのは北口駅前の地下にある「酒亭 玉河」だろう。当時は24時間営業だったので、徹夜仕事を終えたあと何度も飲みに行っていた。朝定食を食っている人を横目に見ながら、どれだけ昼酒を飲んだことか。1998年夏の甲子園で、松坂大輔が延長17回を制してPL学園に完投勝利した試合もここの店内テレビで見た。
立川にいた頃、ぼくの趣味はジッポー集めから野球カード集めに移行していた。別にそのために引っ越したわけではないのだが、立川には駅前の第一デパートに「ウイング」、フロム中武に「ミント」という有名なトレカ屋さんがあった。とくに「ミント」では店長のMくんと仲良くなり、暇さえあれば入り浸っていた。
かつてフロム中武の4階には「はしや」というスパゲッティ屋があり、そこでタラコスパをつまみに生ビールを飲むのも月イチくらいの楽しみだった。
ぼくが立川に来て何年か経ったときに、駅周辺の再開発が始まった。
まずは北口にでかい歩行者用デッキが作られ、駅前の景色がガラリと変わってしまった。南口には、階段を降りてすぐのところに薄汚れた中華屋があって、ぼくはそこで焼きそばをつまみながら瓶ビールを飲るのが好きだったのだが、それも綺麗さっぱりなくなった。その近くには「独楽(こま)」という名前のエロ本屋もあり、エロ本屋だけに「独りで楽しむ」とは粋なネーミングじゃわい……と感心していたのだが、当然それもなくなった。
南口の駅ビルがグランデュオというゴージャスな名前に変わり、そこの7階には「陳健一麻婆豆腐店」が鳴物入りでオープンした。それまで麻婆豆腐といえば母が作ってくれる丸美屋のアレしか知らなかった舌に、花椒の効いた本格的な麻婆豆腐はとても刺激的だった。いくらでもビールが飲めたなあ。
グランデュオになる前だったと思うが、その駅ビル上階のレストランで野球カード仲間と昼酒を飲んでいたら、隣のテーブルにたま(バンド)の4人が座ったこともあった。のちにパーカッションの石川浩司さんとは仕事の縁で友達になるのだが、このときはまだ知り合いでもなんでもない。大好きで毎週見ていた番組の王者を、ぼくはチラチラと横目で見ながらビールを飲んだっけ(※たしかに4人いたので、メンバー4人が揃っていたように記憶していたが、いま調べてみると1996年には柳原幼一郎さんが抜けて3人編成になっていた。ということは人数を勘違いしたか、あるいはメンバー以外の人物が同席していたのかもしれない)。
立川はそのあと北と南を貫くようにモノレールが敷設され、周辺の景色をさらに激変させる。それで再開発が終了したかと思いきや、いまでも止まらず再開発が続けられているようだ。
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