4-小学校5年生

小学校4年の終り頃、父親が会社をクビになった。その直後、家族に相談することなく自ら会社を立ち上げ、家の貯金600万円を使い果たし数十万円の借金を作った。母親とつかみ合いになり、その後半年以上一切会話をすることは無かった。家賃や食費、光熱費は母親のパート収入のみで食いつないでいた。

小3の夏、無理やり転校させられて以降、友達に恵まれた僕は新たな土地での生活に満足していた。放課後はよく友達の家に集まって対戦ゲームで遊んだ。当時、Wiiのスマブラに誰もが熱狂していた。その陰で不穏なニュースがひっきりなしだった。リーマンショックでどうも景気とやらが悪いらしい。

「なんか大変そうだなぁ」と他人事のように聞いていた。父親はIT系の仕事をしていた。小さい頃からパソコンに触れる環境があり、父親はパソコンのことを色々教えてくれた。「よく勉強するんだぞ」と言われ、塾はどうかと聞かれた。今は遊びたいから小学校5,6年から通うと言ってはぐらかした。

そんな普通の日常的な風景が、ある日を境に全てが変わった。学校から帰ると、既に父親が家に帰っていて、母親と揉め事を起こしていた。狭い家だったから、いつものようにトイレに隠れた。防音壁のおかげで、怒鳴り合う声を聴かなくて済むからだ。半年に一回くらい起こる我が家の恒例イベントである。

今回の嵐は今までのに比べて異様に長く、激しく感じた。両親はいつも中国語で喧嘩するため、僕は何を言っているのか理解できないのが常であった。そしてそれが終焉してそっとトイレから出ると、父親は居なかった。母親が奥の方で一人泣いているのを見つけた。僕は緊張と恐怖で話しかけられなかった。

結局その日は何が起こったのか分からないまま床に就いた。一人っ子で親戚は日本にいないので一人で抱えるしかなかった。次の日、胸騒ぎを抱えたまま学校に行った。友達や先生には、気を使ってほしくなかったから言わなかった。なるべく普段通りに振舞おうとした。家に帰るまでは不安な気持ちを忘れることができた。

家に帰ると、相変わらず母親は奥の方にいた。僕は、話しかける勇気を結局持つことができなかった。自分の部屋にこもった。こういう時は頼もしいお供がいた。ゲームだ。ポケモンなど、ゲームをしているときだけは、嫌なことを全て忘れることができた。母親が早くに寝て、夜遅くに父親が帰ってきた。


結局何も語ることなく、各々床に就いた。両親の喧嘩の度に会話が一切無くなるのは、今まで何回もあり、しばらくすると自然と会話が戻ってくる。今回もその流れだろうと思うことで自分自身を励ました。しかし、しばらくたっても会話が戻ってくる気配は全く無かった。

その代わりに母親が早朝パートの仕事を始めた。もともと昼間パートに出ていたから、何で朝から働くんだろうと思った。母親はその影響か早く眠り、その後、夜遅くに父親が帰ってくる。朝、母親がパートに出た後、父親が起きて仕事に行く。故意か偶然か、両親が顔を合わせる場面は無かったのである。

週末は基本父親は家にいるのだが、昼間母親は働きに出ていた。唯一週末の夜のみ同じ屋根の下に集まった。集まっても各々会話する瞬間は無かった。僕は、いつ、どのようなきっかけでまた火花が散るのかを恐れ、なるべく気配を消して過ごした。床のきしむ音さえ立てずに歩いた。

そんな生活が数カ月続いた。未だに僕は何が起こっているのかを理解していなかった。今までの喧嘩の状況とは明らかに異質だった。屋根のみを共有し、まるで他人のように、他人以下のような生活。子供がいるからという理由だけで家庭内別居をしているように思えた。もし僕が居なかったら…

とはいえ事務連絡をしたい瞬間は来る。両親の間の仲介役として、伝言は僕を通して伝えられた。ある日、父親に頼まれた。「明日荷物が届くからママに受け取るように伝えてくれ」と。伝えずに放っておくとそれがきっかけでまた火花が散る気がしたから、勇気をもって伝えた。返事は無かった。

半年くらいたったある日、突然母親が重い口を開いた。慟哭としながら「お父さんはね、会社をクビになって、少ない仲間と勝手に自分の会社作ったのよ。家の金全部使って。私がこうやって一生懸命働いて生活しているのに、パパは半年間一円も給料を家に入れてくれない。これからどうやって生活するの?」

僕は、そこで初めて状況を理解した。一体どのように捉えればよいのか分からなかった。
今まではわがままに甘えていたけれど、生まれて初めて、将来のことを真剣に考えた。でも小学生が自分の力でどうすることもできないから、機が転するのを待つしかなかった。僕は、生まれて初めて母親が泣くのを見た。

状況を理解して以降、ただその傘下にいるしかない現状を思うと、より一層陰鬱とした気持ちで過ごしていた。母親が泣いていたことがショックで、深刻なんだと理解した。相変わらず、半年たっても両親の会話は全くなく、唯一学校でみんなと仲良く過ごす時間だけが支えだった。

休日、父親は母親が家にいない時間帯だけ、今まで見たことのないくらい短気になった。少しパソコンが重くなったり、探し物が見つからなかったりすると、すぐキレて物に当たったり、一人で突然大声を張り上げたりした。僕は、怯えながらテレビのある部屋で静かに座っていた。

そんな夫婦関係でも、母親は父親のための夜ご飯は毎日のように用意していた。小学生の僕にはあまり理解し難い不思議な感覚だった。ものすごく仲が悪くても、迷惑をかけられても、相手のことを思いやって行動することができるのが人間なんだなと、少しは感ずるところがあった。

しばらくたったとき、父親が金一封を持って家に帰ってきた。母親は既に眠っているので、僕に向かって「20万だぞ、後でお母さんに渡しといて」と言われた。この時代に手渡しかと内心思ったが、大切なものだと肌に感じた。直接渡す勇気が無かったから机に置いたままにした。

それから父親の収入が不定期に入るようになったためか、両親の会話が戻ってきた。本当であれば、以前のような環境に戻ることを期待していたけど、それは辛抱強く待たなければならなかった。しかし、両親が会話した瞬間を見るだけで、陰鬱とした気持ちが少しは柔らいだ。

小学校5年生の終り頃、たまに父親の事務所に遊びに行くことがあった。そこには、コンピュータがいくつかあった。パソコンとゲームが好きだった僕はとてもワクワクした。当時、同僚がゲームに詳しいということで、インターネットからPSPに気になるゲームをダウンロードしてもらったりした(違法)。

そんな日々を送る中、母親も事務所に来ることがあった。言葉数は決して多くは無かったけど、母親は事務所の掃除をしたりした。母親が先に帰った後、父親は自慢げに語った。「私、この会社の社長だよ!」僕は多少の反感と哀れみを覚え、その言葉は、狭いオフィス内に虚しく響いただけだった。


それからというもの、定期的に父親は「俺のおかげで生活できてるんだぞ」と自慢げに僕に語ったりした。「何がや」心の中で反抗した。「男は自分で稼がないと生活できない。人に稼いでもらえる女とは違うんだ」小学校6年生の僕は、純粋にその通りだと思ってしまった。妙な説得力を感じた。

11歳だった頃の僕は、父親とは何か?を真剣に考えた。自分自身の幸せだけでなく、一番大切な人の幸せも、父親は責任を負わなければならないのを知った。そのためには、自分自身が努力しなければならないと。トラウマのようなこの一年間の記憶が、狂気と言えるくらいに僕を勉強へと駆り立てた。

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