平成最後の日

先週のこと、うちの裏庭で鹿が獲れた。
獲れたと言っても、獣害よけの柵に自ら引っかかったらしい。
それを発見した隣のSさんが猟師に連絡、ズドンと一発。
後日たまたま通りかかった猟師によると、若い食べごろの鹿だったそうだ。
半分山で暮らしていると、そんなこともあるもんだ。

わたしはSさんのケータイに納められた死んだ鹿の写真を見て、興奮していた。
「自分の手で仕留めたかった」と悔しがる夫の横で、
わたしの心臓はドクドクと燃えた。
これは動物としての本能だろうか。わたしは自分の中の動物とはじめて出会った。あの鹿と同じ動物のわたし。


自宅マンションに帰って、山で摘んだ花を生けてずいぶん眺めた。
しばらくして、花弁が落ちてくねっと萎えた。
それをつかんでゴミ袋に入れる。
そんな日常の行動に今日は違和感を感じる。
わたしが摘んだばかりにこの花は土に帰れないと。
山と町の2拠点生活をする前は、店で切り花をかっていた。きれいだと眺めてやっぱりゴミ箱に捨てた。あの花は消費物だったのだろうか。都市生活は断片的すぎるのかもしれない。


山にかかった雪が溶けはじめると、
家の近くの里山では、また杉の木を植えまくっていた。
杉ばかりでは山に住む動物たちに餌がない。必然里に降りてくる。
みんな花粉に悩んでる。でもまた杉は植えられる。
しかし植えるなと言うだけでは乱暴のように感じる。
じゃあ何て言ったらいいんだろう。
ずっと考えているけど言葉がみつからない。匙を投げるわけじゃなくて、考え続けようって思う。


海の近くに住む人はどんなことを感じているのだろう。
東京の燃えないゴミは”例の島”では足りなくなって東京湾の上に集められている。
燃えるゴミ
燃やしていいゴミ
燃えるけれど燃やさないほうがいいゴミ
燃えないゴミ

環境はわたしの想像を遥かに超えて許容する。
放射能で人が入ることのなくなったチェルノブイリの一角は、木々が自生し、森が再生され、野生の動物たちの楽園となったと人は言う。
それを楽園と呼ぶこともまた人間のエゴのように思う。
放射能よりも有害なのは人間だと言う人もいたが、それもまた言い過ぎなようにも思う。
ただ明らかなことは、環境は変化し続けている。
年の呼び名が変わったら、人の心も変わるんだろうか。人の心を変えるのはどれほど難しいことなのだろうか。

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