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映画感想『蛇の道』

 新宿で献血をして外に出ると、夏の光りが強く照っていたので、体を休めるためにピカデリーに入りました。ちょうど、黒沢清監督の最新作『蛇の道』が上映される時間になっていたので、すぐにチケットを購入してスクリーンの前に座り込みました。

 『蛇の道』は、娘を失った男の復讐に協力する心療内科医、新島小夜子(柴咲コウ)を主人公とするサイコサスペンスだ。黒沢監督が嘗て撮った同名作品のセルフリメイクでもある。

 さて、ここからは、映画の紹介ではなく、私の感想を述べてみようと思います。ですから、この映画を観た方がもしも以下の叙述を読まれたなら、いったい同じものについての叙述なのかと訝しむことでしょう。
 私は、この映画から、家族についての物語、或いは身体を接するほどの距離で培われる人間関係についての物語という論点を強く考えさせられたのです。それは、黒沢監督の意図とは別のことでしょうし、曲解と呼ばれればそのとおりなのかもしれません。それでも、やはり、私は『蛇の道』という復讐のドラマを描いたこの作品から、その論点を考えたのです。それは確かなのです。

 映画で復讐を決行するのは、小夜子ともうひとり、ダミアン・ボナール演じるアルベールという中年男です。彼らは、ターゲットとなる人物たちに、殺される前の娘が映った動画を見せて、娘の殺害事件を報じた新聞記事を読み上げます。事件の経緯は藪の中です。しかし、アルベールの所作やいくつかのセリフから、アルベールの心理が浮かび上がります。愛していたけれど、愛を伝えきれていなかった父親としての、或いは、十分に愛せなかった娘への、愛の欠損を埋め合わせる行為として現在を復讐に捧げている心理が浮かび上がります。
 小夜子との出会う病院のシーンにおいて、生きる意味を失ってベンチにぐったりとうずくまるアルベール、復讐劇が進むなかいつも小夜子の助手役でしかなかったのに、小夜子のピンチを救った一瞬、「ボクが君を救ったんだね」と喜々とするアルベール(誰かを失っているからこそ自尊が奪われてもいる)、そして、終盤ヴィマラ・ボンス演じる妻ローラとの会話、父母のどちらもが娘と十分に幸せな時間を作れなった後悔が明らかになっていきます。
 つまり、アルベールの復讐は自傷行為にも似ています。嘗て愛せなかった娘に対する贖罪の心理がアルベールを彼自身の人生を傷つけざるを得なくさせます。

 しかし、なぜ、アルベールは自傷的復讐に駆られるのか。陳腐な言い回しになってしまいますが、愛の欠損が原因です。娘やローラの近くにいて、その息づかいや体臭や温度が伝わる時間、言いかえればこれまた陳腐な言い回しですが、家族の時間があればと思わされます。

 この愛の欠損は、小夜子にも当てはまります。しかし、私がこの映画に強く惹きつけられたのは、ここからです。この映画は、現代を写しています。現代のきれいにきれいに快適になった我々の暮らしの違和感、それを写しだしています。

 前段の考察を引き継げば、愛の欠損は私たちの常態となっているということです。

 それは、最終盤の小夜子と夫宗一郎とのパソコン越しの遠隔通信で象徴的です。「こうして、二人になって、遠距離で話ができる方が、心の距離は近づいたね。君のその落ち着いた表情をみているのがうれしいんだ」と言った陳腐な内容をしゃべる宗一郎に、小夜子は殺意の視線を向けています。

 小夜子もまたフランスで娘を失っていました。そして、その事件の引き金が宗一郎と吉村(西島秀俊)であったことが、小夜子の復讐の発端なのです。アルベールと復讐を進めていくなかで、小夜子は、ターゲットの死体をナイフを何度も突き刺します。小夜子の目に映っているのは、映画の推移から、宗一郎だっただろうことは容易に想像されます。
(* 西島秀俊演じる吉村の設定が何なのかは想像をかき立てられた。映画ではただの不眠症の患者のようにしか描かれていない。が、私は西島氏の演技から、こういう人物設定なのだろうと解釈したところを記した。)
 アルベールの復讐が自傷ならば、小夜子の復讐は徹底した他者の拒絶です。そして、その原因は、映画の描かない小夜子と宗一郎との子どもが欠損していることにあると思われるのです。

 この、パソコン越しの遠隔通信の利便性。それは、きれいで快適かもしれませんが、人間にそなわっていた何かを欠損させました。そして、失われたものは、何やらおどろおどろしく黒々した得体のしれないものとなって小夜子のこころに渦巻いています。

 小夜子は、心療内科医です。実際の心療内科の現在を私は知りませんが、映画では触診はありません。ある場面で悲しむアルベールを見て、小夜子は一瞬、その肩に手を置こうとしますが、躊躇ってその手を引きます。もう身体のほんとうの接触が失われている生活の中に小夜子がいるからではないでしょうか。唯一、小夜子が他者の身体に触れるシーンは、自身が復讐を果たした吉村の遺族に会ったときです。悲しむ女性の背をやさしく摩りながら、小夜子は「永遠の国では、ずっと笑顔でいられるといいます。」と慰めるのです。天国は、きれいで快適で、まるで現代社会の表層のようです。でも、すべては演技で、すべては嘘なのです。その虚構のなかでだけ小夜子は他者の身体に触れることができるのです。

 こうして、ピカデリーの長い長いエスカレターを下りながら、私は、この映画から、失われた家族の物語、身体性を奪われた文明、そして、その根底に眠る現代への違和感を考えていました。その違和感は、ピカデリーのガラス窓の外に広がるこの大きく明るい東京新時代から私につねづね突き刺さる違和感なのでした。

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