クワス算という「演算」

 言語の規範について考えてみたい。
 
 「クワスは、グルーと同じように、われわれの行為空間の内には存在しない概念であるが、しかし、われわれはクワスの定義を理解できる。それはすなわち、クワスがわれわれの論理空間の内にあるということである。」
(野矢茂樹『語りえぬものを語る』2011年版p.254)
 
 ここに「クワス」と呼ばれているのは、先ごろ逝去されたアメリカの哲学者S.クリプキがウィトゲンシュタインの『哲学探究』に想を得て編み出した思考実験的な「演算」である。野矢氏はそれを、「x+yのxとyがともに57より小さいときには足し算と同じ結果を出し、xとyのいずれか一方でも57以上であるときには答えは5となる。」(同上p.250)と書いておられる。そういう「演算」である。
 さて、私が問題にしたいのは、そんな「演算」、つまりクワス算をわれわ人間は理解できるのかということである。理解できないどころか、それは人間の言語ではないのではないか、と私は考えている。
 なるほど、科学史上、複数の異なる何らかの系が並行するということは起きてきた。地動説が有効になった後でも、天動説は複雑ながらも整合的な宇宙論の可能性を持っているし、ニュートン力学はマクロな現象を説明する分には量子力学と共存している。しかし、そんな難解な話でなくても、二進法は十進法と本質的には同じである。クワス算もそれと同じなのではないのか、そう言われるかもしれない。
 だが、私は違うだろうと考える。そこには通訳可能性がない。物理学の難解な諸理論は理論内での整合性も去ることながら、それらは経験世界を説明する理論なのだから、テスト可能性を十分に有していなければなるまい。すなわち、自然をうまく説明できなければダメなのである。そのようなテスト可能性という基準が十分にあり、そこを蝶番にして十分に通訳可能である。つまり、同じ自然現象について論じあえる。二進法の場合は単純に表記の話であるから本質的に別次元とも言えるのだが、ここでは、経験によらない思考の例として捉えたい。なぜなら、クワスも「演算」だからだ。
 やはり、二進法の場合でも、それとクワス算とが大きく違う点は、通訳可能性である。中学数学で練習したように、二進法を十進法にしたり、その逆にしたりはやり方を覚えれば容易にできるものの、クワス算はそうはいかない。クワス算の結果として「演算」された5が何と何を足した結果なのか、われわれは容易に知ることができない。それは、2+3なのか4.99+0.01なのかといった順当な可能性の中での話ではない。xとyのどちらかが57より大きい場合の可能性などこまでも思いつかないほどあるのだ。(ここで、無限の話に飛びこんで、x+yが57以下の場合と57以上の場合のどちらの濃度が大きいかなどという話はしない。問題はそこではないからだ。)
 つまり、クワス算は、プラス算に基づかないと定義できない。クワス算の結果をプラス算に直すことが不可能である点で、通訳不可能である。それを「演算」と呼ぶとしたら、その根拠は何であろうか。しかもここで、「定義」といったが、それはまるで、ドラマの中の「明青大学」とか「毎読新聞」のようなものではないか。お話の中では機能しえても、実際のキャンパスもなければ、次の朝には待てど暮らせど配られないような、フィクションにすぎないのではないか。クワス算の「定義」とは定義らしきことにすぎないのではないか。それはタンチョウヅルのつがいが首を垂れ合うのを見て「挨拶をしている」と表現するのと同じように、通訳不可能な現象を人間の知っている何かに擬人化しているだけなのではないか。
 その意味で、私はクワス算に懐疑的である。

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