時間の同時性について

 私たちが持つ時間観念を相対化するような他の時間観念が存在していると文化人類学は教えてくれます。ヨーロッパを中心に近代科学を支えていた、過去・現在・未来へと時間はまっすぐに進むと考える直線的な時間観念が一方にあります。対して、東洋では円環的な時間観念があります。十二支が典型的なように時間は進むようでぐるりと一巡りを繰り返したえず変わり続けると考えます。
 しかし、直線だろうと円環だろうと、時間を描写して写しとっているのが言葉であり観念であると仮定できるでしょう。そう仮定するなら、すぐに〈実在の時間〉という考えがぽんと出力されます。流れたり、移り変わったり、動いたりといろいろと言われるけれど、そうした活性を持つこの時間というもの。文章の一行目から何行か読み進めているその間も時は過ぎ去ります。
 さて、〈実在の時間〉なるものについて考えたいのですが、そんな大きなアポリアἀπορɛίαを不用意に引き受けるほど無鉄砲な若者でもなくなったわれわれとしては思いついたことを備忘録的に書き留めておく程度しかできない。
 嘗て自我論では「同定identification」が考察の焦点として哲学談義が交わされていた。それに倣って、「同時at same time」ということが時間を考える切り口として使えないだろうかと提案してみたい。(もうすでに提案されているだろうけど。)
 人物Aと人物Bが同一人物であることがどのようにわかるのかという問題と同様に時間について問いを立ててみよう。1603年は江戸幕府の開府の年であると同時に英国エリザベス一世の退位の年でもある。別の出来事を同時に起きたこととしてつないでいるのは何であろうか。カントを斜め読みすれば、物理的出来事「によって」二つの異なる出来事がつながれていると考えることもできる。なせなら『純粋理性批判』にはつぎのような記述があったのだった。
 
「時間はそれだけとしては知覚されることはできない。したがって知覚の対象、……それが時間一般を表象し、あらゆる変易或いは同時存在とは、……現象の関係によって覚知されることができるのでなければならない。」(B225)
 
すなわち、われわれが同時性を構成するという考えが出てくるのである。しかし、カントをよく読めばその考えは捨てられるか、或いはもっと洗練されるべきことがわかるだろう。(つづく)

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