懐疑について

 哲学史の中には陥ってはならぬ理説として語られてきたものが幾つかある。観念論、唯我論、懐疑論……。反実在論も近年までこのリストの中に含める哲学者が多かったのかもしれない。とりわけ、哲学者たちに評判の悪い理説の筆頭が懐疑論なのではあるまいか。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、「懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである(6.51)」と書いていた。「真実在への懐疑」から始まり、「外界への懐疑」「他者の心への懐疑」「因果律への懐疑」「規則遵守への懐疑」……思いつくだけでも哲学史はつぎつぎと懐疑に埋め尽くされている。
そのような懐疑をとり上げた論究の多くは、〈懐疑論へ陥ってはならない〉という謎の掛け声を駆動力にして自らの議論を練り上げていく。
 さて、そのような場面にしばしば出会った者として筆者の感想は、それらの懐疑とはそれほど忌避されるべきものなのかという疑問である。もちろん、懐疑は古代においては判断を慎重にして徳へと至る道の一つであったし、近世においては科学的精神を醸成したのだった。そういった懐疑という行為や手法の美点とは別に、筆者が抱くのは理説としての懐疑論が哲学における陥穽として語られる所以はどこにあるのかという疑問なのである。もしかすると、懐疑論とは〈陥ってはならぬ〉という表層の気分とは別の本質をもった思考法なのではなかろうか。
そのような疑問を出発点に懐疑について考察するとき、つぎのD.ルイスの言葉を本稿の端緒としよう。
「現実性の指標的分析に対する最も強力な根拠は、われわれのこの現実(our own actuality)に対する懐疑がなぜ不合理であるかを説明することである。われわれが現実世界とは別の可能世界における、可能ではあるが現実ではないような住人だ、などとは言えないと、われわれはどうやって知ることができるだろうか。われわれの世界のどんな特徴を挙げようと、それは現実ではない別の世界と共有されているのだから、どんな証拠にもならないだろう。現実化されていないがいみじくも青々とした草もあるし、現実化されていないが(現実化されていない)パンをいみじくも買えるドルもあろう。そして、現実化されていないが自分が現実であるといみじくも確信している哲学者もいるだろう。われわれは、われわれが現実である(we are actual)ことを全く不思議な方法で知っているか、或いは、全く知らないかのどちらかである。
 しかし、もちろん私たちはそれを知っている。私が私であること、この時間が現在であること、私がここにいることを私が知っているのと同じように、現実性の指標的分析は、われわれがそれをどのように知っているかを説明する。「これは現実世界である」、「私は現実である」、「私は現実に存在する」などの文はすべて、あらゆる可能世界におけるあらゆる発話状況において真である。だから(That is why)、われわれのこの現実性に対する懐疑は不合理である。」(拙訳「アンセルムスと現実性」)
 引用の第一段落冒頭で書かれていることは、懐疑がルイスの唱える「現実性の指標的分析」の強力な論拠となるということだが、本稿はその主題を論じるものではない。本稿にとって、ルイスからの引用で大切な点は、われわれの現実性と懐疑との関係についてのルイスの見解である。われわれのこの現実性は疑い得ないということが懐疑遂行の果てに確信されるという見解である。どうしても疑い得ないということが、それでも一旦は懐疑を遂行してみるという懐疑遂行の果てに確かめられ、強められ、明らかにされる確信なのである。それは、「世界の本源的な親密さ」といってよいような事実性であろう。
 本稿は、そのような思考図式の許での懐疑についての考察である。そして、そこでは哲学史ですでに実証されているとも言えるが、懐疑遂行が哲学の一つの重要な方法であることをもう一度確かめたい。そして、なぜ、重要なのかと言えば、懐疑遂行が可能性と必然性のあわいを測る思考法だからであり、そのような懐疑遂行の果てに見えてくる、われわれの言語についての唯我的な事実について確かめたいのだ。
 まず懐疑論という哲学の理説はどのような論証構造を持つ理説であるのかを見たい。第一に認められるのは、懐疑論はわれわれが日常的に信じている世界の在り様とは別の事態を描くという点である。日常、われわれはひと時の感情や信念とは別のそれらを超越した実在物が存在すると素朴に思いなしている。同じく、日常、われわれは感覚として捉えられる現象とは別にそれら現象の集合を超越した外界があると素朴に思いなしている。そして、他者には心があり、言語には意味規則があると素朴に思いなしている。しかし、懐疑することで、実在のない可能性、外界のない可能性、心や規則のない可能性を思い描かれているのだ。すなわち、懐疑とは日常の素朴な思いなしとは異なる世界を思い描くことなのだ。懐疑とは、いわば日常という象限から別の象限への思考の移動こそが懐疑という行為の本源なのであると確認できる。ただし、それだけなら懐疑論が多くの哲学者が忌避するところとはならないだろう。ヤスパースも言うようにむしろ哲学の出発点ともなり得よう。ところが、懐疑がそれなりの推論と伴に立ち開かると思われるとき、事情は異なろう。つまり、日常の思いなしを基礎づけ得るのとは別の妥当な推論を伴って懐疑論が立ち現れたとき、多くの哲学者にとってそれは、応答を迫る脅威と感じられよう。
 ここで、われわれはデカルトが『省察』で展開した方法論的懐疑をそのようなものとして読んでみたい。つまり、デカルト自身が自ら提出した懐疑論に応答を試みた書として『省察』を解釈するのである。その解釈の過程で、懐疑論というものの論証構造を幾分か形式化して描いてみたい。
 
「思うに、これまで別けても真なるものとして私が認容れてきているかぎりのものはどれもみな、これをあるいは感覚から、あるいは感覚を介して、私は受け取った。感覚はしかし時折は欺くことを私は思い知らされたことがあり、かくて、われわれを一度でも欺いたことのあるものを、けっして全面的には信頼しないこと、それが賢明というものである。」
 
 感覚についての日常の思いなしは次のようなものであろう。
 α:感覚Aがある。
 β:感覚表象は実在に対応している。
――――――――――――――――
 γ:したがって、実在Aがある。
 
 このような日常的な推論に対して懐疑論者は、たとえαとβを認めたとしても、われわれの日常的な瑕疵を指摘し、そこから次のδを言い立てる。
 
 δ:われわれは間違うことがある。
 
 われわれも自らの行状を振り返ると、δを補助仮説として認めざるを得ない。すると、懐疑論者は補助仮説δを踏まえて、α・β・δからなる推論を作る。そこから、懐疑論者は次の主張をする。
 
 ε:すべての感覚について、それがつねに実在に対応しているとのいかなる論証も与えられていない。
 
 つまり、ここまでで懐疑論者はα・βという日常推論の仮説を認めて、日常推論とは別のα・β・δ→εという推論を作ったのである。そのため、懐疑論者は、日常推論の結論γに異を唱えることになる。したがって、懐疑論者は最終的に日常推論のγを否定して、~γを主張するに至るのだ。つまりは、
 
~γ:実在Aはない。
 
 したがって、懐疑論の推論構造は、(α・β・δ→ε)→~γという構造をしている。このような論証構造に対してわれわれはどのような評価を与えられるだろうか。まず、気づくのは、α・β・δからεまでのステップをたとえ認めたとしても、εから懐疑論の結論~γへのステップが飛躍にすぎるということだ。もしも、εからのステップを認めるならば、それはすべてについて真なる言及ができることを保証されない限り、何についてもその命題を信じないということに他ならないからだ。その要請は懐疑論にもあてはまるのではないかという疑問が擡げたとしてもしかるべきだろう。しかし、以上の点は表面的な批判にすぎない。なぜなら、次に確認する点こそがデカルトの懐疑の本質をなしていると思われるからだ。焦点はεである。εは本稿がデカルトから解釈したものであるが、デカルトのテキストにも明示されていた。「かくて、われわれを一度でも欺いたことのあるものを、けっして全面的には信頼しないこと、それが賢明というものである。」
 
 ところが、懐疑とは本源的に象限の移動であった。日常性の象限から思考によってそれとは別の可能性の象限を拓くこと、これが即ち懐疑の本源であった。であるならば、デカルトの方法的懐疑とはその初発からおおよそ多くの事象や法則を拒むことを宣言していると言える。なぜなら、おおよそ多くの事象や法則は地球の上で偶然に存在しているものだからだ。地球に生活するわれわれ人間が必然的と考えるような法則でさえも、別の可能世界の可能的な地球を想定するならば、必然的と言えなくなるだろうと懐疑を差し挟むことができる。つまり、デカルトの方法的懐疑とは、全可能性において単に可能であるのではなく、全き必然であるものを希求していると言えるのだ。そのように解釈したとき、デカルトの方法的懐疑とはそれまでの懐疑の哲学史において超然と屹立して他と次元を異にする思考であったと思われる。デカルトと同じく哲学に生涯を懸けようとする者にとって、それは感涙を禁じ得ぬほどである。
 そこで、以上のようなデカルト哲学の最深部からの眼差しをもって先の論証形式を再形式化してみよう。
 
 懐疑の最中において、われわれの言語を使うのはただ私のみである。なぜなら、そのとき、われわれは懐疑に付されているのだから。では、懐疑の最中で使われている言語とは、どのような言語なのか。それは、われわれの言語である。なぜなら、私は懐疑に至るより前からわれわれの言語を使ってきたのであり、懐疑に至る段階で違う言語に使用を変えたとする形跡もなければ理由もないのが定めしの理由である。そして、もっと本質的には、われわれの言語が全一的で単一的であるからだが、そちらは、本稿が説明すべき主題であるので、ここでの理由として述べるのは相応しくない。それはとりあえず措くとしても、懐疑の最中で使われるのが、われわれの言語以外の別の言語であるとは考えにくい。
 したがって、懐疑の最中にでは、私がそして私のみがわれわれの言語を使っている。では、その私とはどのような在り方をするものなのだろうか。ひとまず、私とは別の自我が、即ち意識を持ち、思考を行う主体が別の時点の別の場所で、これまで述べてきたのと同様の懐疑を行っていると仮定してみよう。しかしながら、そのような別の自我なり、別の意識なりは、先般のわれわれの場合と全く同じ状況に置かれている。つまり、もうすでに、彼女/彼は懐疑に付された対象なのであり、いわば、動きを止められている。彼女/彼は懐疑を行う主体ではあり得ない。したがって、懐疑の最中でわれわれの言語を使用している私とは、唯我的な存在である。だが、その唯我性は、私という主体から得られた性質なのだろうか。そのような思考を与することは、純粋な形而上学的な〈私〉なるのものが、この世界の実相とは別の次元に存在するという神話を描き出す道に他ならないだろう。
 それでも、懐疑の最中で私が唯我的であることまでは認めるとするなら、本稿は前段落のような〈私〉のメタフィジックスとは別の道を歩むことになる。(よく似た二つの思考がもともと別の哲学の問いであったということは、哲学史ではよくある話であろう。)
 そのために次ぎのように問うてみよう。他のものを懐疑することができたとして、同様に、懐疑する私が使用しているわれわれの言語に対して懐疑を向けることはできるのだろうか。それは不可能ではないかというのが、本稿の主題である。本稿の議論は、われわれの言語行為の一部としての懐疑の遂行という日常的事実を始発点としている。そこで懐疑遂行者(σκερτικοι)は言語の力によって懐疑を遂行してきている。その言語の力の中心が唯我性なのだが、それを確かめるために狂気の懐疑を考察したい。

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