可能世界と言語

さて、可能世界を導入すると、様相を二重にした場合が問題となる。つまり、何かが必然的であるということから、その何かの必然性は可能であると結論づけていいかという問題だ。必然的なことが可能になる、それは不思議な感じがする。そして、やはり、ここでも、様相については、その真偽を事実と照らし合わせて判然とさせえないことが問題の手強さを増す。現代の様相論理学者たちの間でも統一見解を持てていないこの問題にここで解決を見つけられるはずもない。そして、哲学とは、対話を積み重ねて解決を目指す営みではあるものの、解決がその営みの究極目的ではないのだから、われわれは、古今の哲学者たちが様相について、どう考えてきたかを参考にして、もう一歩を踏み出そうと思索をつづけよう。

デカルトは、『省察』の中で2+3が5ではない可能性に言及したのであった。ただし、それは2+3が6になってしまう可能性であるとか、あたらしい演算規則を考案してしまう可能性とかではない。人間知性を神が作ったならば、人間にとって必然であることも、神にとっては可能なことでしかないという意味だ。いいかえれば、必然的なことは、たしかに神の創造と意思に依存するかもしれなが、われわれがものを思考するこの枠組みにおいては必然的であって変えられるものではないということだ。

ライプニッツは、それに対して、様相を人間の認識の問題とは区別して考察した。可能的なものは、現実を神がこのように創造する前から可能的なものであったと、ライプニッツは書いている。(アルノー宛書簡1687年7月14日)そして、この言葉からすれば、すべての可能世界においで真であるできことも、神の現実世界創造より以前に、そのようにあるわけだ。つまり、必然的真理は、神によって創造された人間の言語に写し出されるかたちでしか認識しえないものの、それは神の意思より以前に決まっているということだ。

デカルトとライプニッツの見解の相違は、人間の認識能力それ自体についての相違ではないだろうし、まして、神の創造意思についての意見の相違でもあるまい。むしろ、人間によって認識される様相のあり方についての相違である。つまり、デカルトは、□P→◇□Pを認めるのに対して、ライプニッツはそれを認めず、むしろ、□P→□□Pを考えるのだ。この見解の違いを生む哲学的な問いとは、すなはち、可能世界を思考対象と認めたとして、そのあり方は認識とどのように関係したあり方をしているのかという問いに他ならない。

われわれ人間が認識するものはさまざまにある。色や臭い、形や情緒。音楽の奏でられる音は物理空間に自存してあるだろうが、音楽の情感は聴く人のコンディションに依存してあるだろう。三角形は紙の上に書かれて考えられているが、思考対象しては自存していると考える哲学者もいる。ライプニッツは、可能世界を思考対象していわば自存していることを認めたのである。

時代はくだって20世紀。可能世界の身分を巡る意見の相違が繰り返される。クリプキとD.ルイスである。
クリプキは、可能世界を現実世界に依存した思考対象だと考えたといえる。1972年に出版された『名指しと必然性』において、固定指示詞という概念を発見した。

  (1)夏目漱石が『こころ』を書かないこともありえた。

ここで「夏目漱石」は、現実に夏目直克とやすの子として生まれ、明治ととも生きた一個の人間を指し示している。そして、この「夏目漱石」は命題(1)でも同じ個体を指し示しているのだから、貫世界的に同一のものを指示しているといえる。このような言葉をクリプキは固定指示詞と呼んだ。

ところで、よく言われるように、固有名詞が典型的には貫世界的同一指示を行う。しかし、固有名詞であるから貫世界的同一指示を行うのではないことに注意したい。そもそも、哲学の議論が日常言語の名詞の分類に、しかも恣意的な品詞の区分に左右されるというが変な話である。たとえば、「夏目漱石」はつぎのように言い換えられる。

  (2)夏目漱石は『こころ』の作者である。

すると、ある人々は、「『こころ』の作者」という句は非固定的だというのだ。なぜなら、「『こころ』の作者」を(1)に代入すると矛盾が起こるというわけだ。

  (3)『こころ』の作者が『こころ』を書かないこともありえた。

これは、◇(P&~P)ということを表明しているわけではない。「『こころ』の作者」と呼ばれた個体が、「『こころ』を書く」という記述句による性質をもたない可能性を言っているにすぎない。言語表現には、指示用法と記述用法があるという平凡な真理である。

すると、われわれの言語には指示詞となる働きがあり、様相を表す命題では指示詞によって、可能世界にある個体を指し示しているというわけだ。しかも、指示詞によって個体を指し示すことによって、世界間にある個体どうしが同一の個体であると決めてしまうというわけだ。これがクリプキの考えである。クリプキにおいて、可能世界の対象とは、現実世界の個体と同一のものであった。

対して、ルイスは、可能世界の対象が自存的にあることを認める。ルイスにおいては、先の命題(1)に登場する「夏目漱石」の指示対象は、現実の夏目漱石ではなく、可能世界に住む対応者である。対応者とは、現実世界の様相を考えるにふさわしく、現実世界の対象にその可能世界で一番よく類似した個体のことである。

このルイスの説に対して、クリプキの説を支持する人からは、つぎのような反論があるかもしれない。命題(1)はあくまで、夏目漱石その人の可能性を考えているのであって、夏目漱石のそっくりさんについての思考ではないと。しかし、それは様相というものと一般的な信念とを取り違えている。もちろん、ルイスの説においても、命題(1)は現実の漱石のことを考えている。現実の漱石についての可能性がどうあるのかをはっきりさせるために、可能世界という概念モデルを道具として使っているのだ。

現実のことなら、槍ヶ岳で見かけた人は、隣りの住人であったろうかと訝しむとき、われわれは同一の個体について考えている。しかし、「『こころ』を書いた漱石」と「『こころ』を書かない漱石」には、同一というためのはっきりとした事実などないのだ。むしろ、クリプキの指示詞の定義からしても、われわれは、現実の漱石と可能な漱石の二つの類似した個体を〈同一である〉と約束しているのだ。やはり、可能性と現実とは異なるのだ。

ここで、次のことを確認できる。可能世界とは、思考内容として立ち現れるような世界ではない。夢や幻などのイメージとはそもそも異なるのだ。むしろ、可能世界とは、われわれの思考の真理条件をはっきりさせるために使用する人工的モデルなのだ。

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