歌人・窪田空穂
窪田空穂は、明治10(1877)年に、現在の松本市に農家の次男として生を受ける。明治10年とは、その前年に福沢諭吉が『文明論之概略』を著し、同年2月に西南戦争が起こる年である。元号は明治と改まったものの、坪内逍遙の「小説神髄」はその八年後の1885年、子規の「歌詠みに与ふる書」は1898年であるから、空穂の生まれた年は文学的にはいまだ開明の夜明け前であった。むしろ、1899年以降に本格化する短歌革新運動に空穂の青年期があったという年譜的位置づけとなろう。
農家の次男と書いたが、空穂自身、自らの出自を「中農」の出と書いており、「後年になって思い返すと、幼い頃のそれが、生涯の心の拠り所となっている。のみならずそれが私という人間を決定している」(『窪田空穂歌文集』p.77)と書いている。空穂は父の42歳のときの子であった。本名は通治(つうじ)。空穂から見る父は正直で勤勉な人物であった。代々、分家としての家柄を継承し保守してきた係累に属し、その役目を果たす人物であった。が、一方で、息子たちに学問を許した面も見せる人物でもあった。『わが文学体験』(岩波文庫p.45)では、「二十歳代は幾ら失策ってもいい。失策らなくちゃ物が解からない」と、父から若き空穂にかけられた言葉が引かれてもある。
空穂が作歌するきっかけは、信州松本で小学校の代用教員をしていたころに、同僚として知り合った太田水穂のすすめによるものであった。ここに空穂の歌への思いを伝える面白いエピソードがある。空穂は水穂に自身の歌の出来栄えを評してくれてと歌を見せたところ、水穂の返事が芳しくない。そのとき、空穂の反応は、以下のものだったというのだ。「私には、水穂の評を全面的に承認できないものがあった。彼以外の、もっとましな人に聞いて見たい、との押しの強さがあった。」(『わが文学体験』p.37)評者を差し置いて「もっとましな人」とは何たる矜持だろうかと驚かされる。その後、空穂は与謝野鉄幹が撰歌する『文庫』という雑誌へ歌を投稿する。が、しかし、われわれの予見に反し、それは鉄幹に心酔してのことではないらしい。むしろ、鉄幹の方が空穂の歌に見どころを発見していたといった関係性がうかがえる。
さて、講談社学芸文庫に収められた『窪田空穂歌文集』から初期の歌をいくつか引こう。
音立てて踏むにくづるる霜柱母に別れて里出でて行く
夢くらき夜半や小窓をおし開き星のひとつに顔照らさしむ
鐘鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦みし生命も甦り来る
以上は全て、空穂28歳の第一歌集『まひる野』に収められた歌だ。空穂の母が亡くなったのは、空穂が早稲田に学ぶために上京していた明治30(1897)年、空穂21歳の八月一日のことであった。空穂と母との関係性は、父とのそれがむしろある客観の距離感を保ったものだったに比べて対照的だ。むしろ父との関係が旧家としての距離感が明瞭とならざるを得なかったためもあったろうか対して、空穂には、母との関係性は、読者に母子一体感という語を想起させるほどの緊密度を持った筆致で述懐されるのである。あるところでは、「末子の私に対する母の鍾愛は、今より思っても可笑しいくらいであった。口には出さず、行動にもあらわには示さずに、母は末子を酷愛したのである。」(『わが文学体験』p.43)と、書かれ、また、「母を憶うと、私には母は懐かしさその物となって、胸に余って来て、それを言葉にしたい衝動を感じるのであるが、この懐かしさだけは全く言葉にはなし難い。」(『窪田空穂歌文集』p.65)とまで書かれている。【つづく】
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