霊魂とは何か?

 もしも「霊魂」という言葉が、「像」としてわれわれの言語の中で有意味であるならば、その名辞はいったい何を指し示しているのだろうか?

 『論理哲学論考』の中では、名・名辞の有意味性は、命題の真理値によって保証されるのであった。つまり、その名辞それ自体はあくまで命題の構成要素であって、論理形式のもとにその名辞を使った命題が、世界の事実を写像し得ているかどうかによって、そもそももとの名辞がナンセンスかどうかが遡及的に確定するのである。

 では、次のふたつの命題を比べてみよう。

⑴「よくおまじないをしたお水なので、魂が清められます。」

⑵「よい人生を求めた詩人なので、魂がこもった詩です。」

 さて、⑴も⑵もナンセンスだとして払いのける科学主義のやり方もあるのだが、もう少し穏当に、ここでは、⑴を似非宗教として払いのけて、⑵をわれわれ一般庶民の言葉遣いとしてひとまず認めてみたいのだ。

 ⑵の「魂」は隠喩だろう。われわれの言語は実は喩から成っている。それ自体、言語哲学の本題だと思うが、ここでは、喩の問題に切り込んでいくことは回避して、「魂」のもう少し、本源的概念分析を試みたい。

 他者の「魂」についてわれわれは如何ほどに語り得るであろうか。

 自己の魂であれば、その永続性・不死性を問題にしたりする。しかし、他者の魂とはそれと同じであろうか。同じであろうと応える向きもある。他者の不死性こそ問題となる場面は幾らでもあろう。国家の統合を象徴するような偉人の魂が不死であるといった言説はありえよう。

 いや、しかし、それでは、喩の周りをぐるぐるするだけで、「魂」を巡る問題の核心には至らない。

 他のどの名辞よりも、「魂」という名辞がなぜだか、われわれの唯我論の名残りをその概念に残存させたままの名辞であると思えるからだ。

 そのような唯我論の概念は、やはり、「死」と「魂」の思考実験によって、他者と区別された自己が浮き上がってくるときにこそはっきりしてくる。

 「もしも、私が死んだならばどうなるのだろうか?」

 少なからずの人々が考える、そして、人の理性では思考が空転しそうな難問である。そのとき、私の本質は私の魂としてある。私の魂に相対的に他のあらゆるものは、「属性・偶有性」として把握される。

 では、他者の魂は?

 私の死後の永続という、この思考実験の中では、他者のもやはり、私の魂に相対的に世界の偶有的な一事例にすぎなくなっていまいか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?