歌集感想:今井恵子『白昼』

 今井恵子氏の『白昼』は二〇〇一年に上梓された。この年の九月には9・11テロ事件があり、二十年後の現在から見ると世界の政治地図が塗り替わっていくターニングポイントになった年である。九十年代からこの時期、歌人はどんな日常心象に身を置いていたのであろうか。
 
 カレンダーいちまい剝がす午前二時あすは古着をぜんぶ捨てよう
 わたしはと書き出す文がいつまでも述語を呼ばないような関係
 銭湯へゆくとき通るくらがりに勤勉を誇りて人々ありき

 
 現在の在り方をすべて見直そう、「ぜんぶ捨てよう」という衝動的な思いに迫られながらも、「わたしは」何ものであるのか、その自己証明が帰着する「述語」を持ち得ずにいる状態、それは「くらがりに勤勉」にいる人々と実は通底するもどかしさと言えるのではないか。
 この歌人の特徴は、批評性とともに、こうした内省の深さではなかろうか。
 
 胸元へ毛布ひきよせ灯(ひ)を消してしばらくは指の形を意識す
 
 自分は何者で、何をしたくて、どこへいま向かおうとしているのか。いろいろなことを夜の臥所に考えてしまうのだ。眠れぬ夜を持つのである。以下、このような自己証明の主題と思える歌を数首、引用しよう。
 
 もう誰も弾かぬピアノの高音がくるいはじめて夏の日およぶ
 言い負けて悔しき少女と歩きたり真白く水の光る川まで
 降りいでて楠の繁茂をぬらしゆく雨の中なる銀の自転車
 朝のひかり蟷螂の子ら生まれいでて虚実の間に身を泳がせる
 度の強い眼鏡のむこうに見る景色われの芯なる影をうしなう
 自転車の盗難届けを出しにゆく夕立すぎてあかるむ青田
 ある日ふと日本語が解らなくなりそうな予感している晩夏曇天

 
 この時期の歌人自身の実生活が転換期にあったとも解釈できようものの、もうすこし他の文芸にも通じる作品論に重きを置けば、作中主体は「誰も弾かないピアノ」に象徴される過去に拘っている。それは、「言い負けて悔しき少女」期の悲しい思い出でもあり、「雨の中なる銀の自転車」のような明るくさわやかな大切さでもある。「蟷螂の子」も「眼鏡の向こう」も「自転車の盗難届け」も、そのような観点から見れば、〈揺れる自己証明〉という読者にも通底する主題となるだろう。この引用歌群の中で作中主体は揺れの最なかにいる。自分の身体もぴったりと身についた母語が意味を持たなくなっていくような狂いの予感に眩暈を覚える、そんな揺れの最なかにいる。
 
 MRIに母の脳内写されて胡桃割る音きくごとくいる
 しんみりと「あとどのくらい」窓の辺に顔あげて母の蝉しぐれなり

 
 作者の実生活からは、その揺れは〈老母の介護〉という現代的な課題であったろう。そこに一定の落ち着きと見通しが付きはじめたとき、歌にも達観した気配を帯びる重厚感な調子が響く。
 
 山茶花の花に鵯(ひよ)啼くすぐそこに明るく始発があるかのように
 楠大樹たつところまで道見えて広くほのけし人が火を焚く
 額(ひたい)から新聞のなかに溶け込んでしまうごとくに眼鏡の男
 ひとすじの蚊取り線香たちのぼり西日に畳のやけいるところ
 箸置きにゆっくり箸をおくごとく襖に母のおやすみなさい
 病院の廊下の椅子に眠れると見えしが男は泣きはじめたり

 
 それでも、たとえば以下のように、繊細な心性を帯びる歌もある。この繊細は次にみる批評性の源泉とも言えそうだ。
 
 スーパーで人に会うのが怖い日は悪人面の俳優が好き
 躾よき犬がこちらへやってくる道を譲らねばならぬ気がする
 メロンパン棚にひとつが売れ残る店過ぎてより雨降りはじむ
 論説の二項対立図式その埒外にぼうっと立っているもの

 
 この歌人の持ち味の一つは批評性にあると感じる。他者に向けた観察眼はときに鋭く、人間というものの本質を射抜く。
 
 隣り合いてラーメン啜る青年の「ぼくが」の数の多さ猥らさ
 太き幹の中央に赤く印されて子供の頭を打ち割りし位置
 拷問中は声をたてるな泣くなという注意書きあり 人が作りし

 
 一首目はたまたまファミレスかフードコートに隣り合わせた男女二人に対してである。何でも男にやらせる若い女と、そんな若い女の意図を利用して援助のあとの性交を手繰り寄せようとするチャラい男の生態を一瞬に見抜いている。二首目以降はカンボジア旅行での連作から。ポルポト政権下での大量虐殺を扱った歌である。日本で暮らす私たちの日常と一見遠く思える海外での残酷は、実は繋がっているのではないか。作者の眼差しは真剣に残された現場を見つめている。
 今井恵子氏の歌業はこのあとも続いていく。「わたしは」につながる「現在形の動詞」をさがしている「少女」は、つねに更新を目指している。
 
 小雨ふる午後の窓辺に灯(ひ)をともし現在形の動詞をさがす
 足音をしのばせてゆけ少女子の背中が割れて脱皮はじまる

 歌集のタイトル、「白昼」は明るい昼のイメージを持ちながらも、「白昼堂々と事件が……」などと使われる物騒な単語でもある。そして、その明るさは衆目に晒されている不気味さにも通じる。以上述べてきた、内省と批評の二点を合わせるとき、これら現実の本質を見抜こうとする心性が「白昼」というタイトルを持つことに、かなり納得がいくのだ。

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