『若い読者のための科学史』

 ランドリーを回している待ち時間に図書館に行って手にした本です。

 14章は、デカルトとベーコンのことについて書いてあります。デカルトは1619年11月10日、ノイトブルクの炉部屋で二つのことを結論するに至ったのだと著者は書いています。一つは、確実な知識をえるためには、もう一度いちから自分でやりなおさないといけないこと。二つは、そのための方法は疑うことなのだということ。

 この二つをもう一度考えてみると面白い。たとえば、〈さがす〉という方法も候補になりえたのではないでしょうか? 現実、わたしたちは、日々、〈真実の報道〉を求めています。「チャンネル~よりは、ジンボウさんや尾形聡彦さんの報道の方が、信憑性があるのではないか。」などと思って、動画の内容を鵜呑みにしてしまっていたりするわけです。古い論理学では「権威による論証」とよばれ(現にインド論理学では正しい推論の一つに数えられます。)、ニコラス・ルーマンの社会学では、システムへの信頼があってはじめて社会は駆動するものとして描かれます。

 しかし、デカルトは、〈さがす〉のではなく、〈うたがう〉のです。デカルト哲学を哲学史の知識としている身としては、そりゃ、〈うたがう〉方が確実性が増すからね、と気にも留めずにいてしまいましたが、何故、疑うのでしょうか。たとえば、「もしかしたら、尾形聡彦さんが報じていることも間違いの可能性があるかもしれない」何て、いちいち考えていては、現実は前に進みません。リテラシィー教育の基本にも〈さがす〉ことは一つの柱として重要だと考えます。ですが、デカルトは疑います。

 著者が述べる二つの結論の底にある同じ一つの前提を考えてみたいと思います。それは、〈自己信頼〉と一言で括れるような事柄です。これがなくては、幾らうたがってみても確実な知へは到達しません。つまり、デカルトの求めた確実性とは、自己に基づく確実性であったと言えます。
 
 そうすると、われわれが日常で確実と思っている事柄も、自己と非自己の二つの確実性が両ながらに合わさったものだと了解されます。

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