窪田空穂の短歌②

 明治38(1905)年の『まひる野』刊行前後のことを記そう。

 前年、明治37年、牛込区の柳町教会で、空穂は植村正久牧師から洗礼を受ける。当時の空穂は、鉄幹の新詩社から自然と遠のき、友人たちと立ち上げた『山比古』にも飽きて、それを廃刊とした頃である。『わが文学体験』には、「何かしっかりとした心の拠りどころがほしい、なくてはいられない、という気がしきりにするのであった」(p.70)と記されている。

 新詩社との関係は前にも書いたように、むしろ鉄幹の方が空穂に前のめりであった。当時、短歌を革新しようと意気込んで自らの発表媒体である「明星」を立ち上げた鉄幹は、全国からこれはと思う気鋭の人物に自ら連絡をとり寄稿を斡旋した。空穂との出会いもそうした鉄幹のベンチャーの一環であったろう。そして、「明星」は軌道にのり、新時代を代表する文芸誌に成長した。しかし、空穂にはその新時代の文芸思潮、新詩社での居心地がそれほど快いものではなかった。

 たとえば、鉄幹は、「坪内逍遙なんて人の生活は、さみしいものだと思いますよ」と言ってのける。(『わが文学体験』p.53)たしかに、当時の文学思潮、鷗外と近しい関係の鉄幹にとっての、鷗外の論争相手である逍遙を考えるだけでも、鉄幹には鉄幹の言い分があったとも推察されもするが、しかし、鉄幹の逍遙評が空穂に与えた淋しさは、これまた想像に難くない。なぜなら、空穂が19歳、24歳と二度にわたって東京専門学校、すなわち早稲田の門を叩いたわけは、一重に坪内逍遙の講義に出るためであったのだ。当然のことながら、新詩社風の浪漫主義的傾向は、空穂の歌からなりを潜めていくのであった。

 そして、そのような空穂が、逍遙ともう一人、自ら素直に「先生」と呼び得る人物が、先の牧師、植村正久に他ならなかった。教会に友人と二人ではじめて姿を現した空穂に、植村は「祈ったことはありますか? そして、それが聞き届けられたと感じたことはありますか?」とやさしく問いかけた。空穂はしばし惑い、正直を言おうと意を決めて、答えた。「祈ったことはあります。しかし、それはキリスト教の神にではなく、また、何か他の宗教的な神にでもなく、あえて言えば、亡き父に対してだったと思います。それが聞き届けられたのかどうかは私には定かではありません。」植村は空穂を向かえ容れた。
 その後、三年間、教区移動で植村が柳町教会を去るまで、空穂は日曜ごとに礼拝に訪れる。「先生は不思議なほど統一がついていて、いつも何の破綻もなかったのである。」「偉大という語があるが、先生はそれに値いする、人の世の稀れな存在だと思っていた。」(p.87)と空穂は述懐している。第一歌集『まひる野』は植村にも贈られている。植村がよく読んでくれるだろうと期待したからであった。


 以後、空穂は電報新聞社に入社、しかしながら、日露戦争後の不況のあおりを受け、明治39(1906)年に全員解雇を言い渡される。当時、それでも文士は何らかのこまごまとした原稿料にありつけたと空穂は書いているが、同年8月に国木田独歩の独歩社に入社する。電報新聞社、独歩社で空穂は短歌の撰を担当する形で紙面の編集に携わっていく。この年、第二歌集『明暗』を刊行する。また、明治45(1912)年には、それまでの短歌をまとめた『空穂歌集』を刊行する。

  いらいらと腹立つ癖のつき初めぬ、三十路をわれの越えにけるより。

  争はでありける程に、いつとなく、我ら疎くもなりはてしかな。

  ただ事と見ては過ぎける事どもの、あはれ何ぞも、心刺し来る。

 大変に、ストレートに自分の感情を韻律にのせ吐露している。ここには、誤解と批評にさらされざるを得ない文学者としての、或いは都会人としての空穂の偽らざる感情がある。このような素直すぎる歌は現代でも採られないと思われる。そのような感情の吐露、或いは自己開示のあまりの素直さがこの時期の空穂の特徴ではないだろうか。或いは、この時期の空穂の精神生活そのものであったのではなかろうか。多くある空穂の歌集で、よく引用されるのは『まひる野』や、次にくる『濁れる川』であろうか。『空穂歌集』を引く人は多くない。それでも、今回の引用の典拠である岩波文庫『窪田空穂歌集』は他に比べて多くのページを『空穂歌集』に割いている。編者は大岡信である。

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