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『怪物』の問題点について

確かtwitterで児玉美月さんが、ある映画の試写で「後半のネタについては記述しないで」という注意書きがされていた件を書かれていた。そしてクィアをギミックとして利用する問題点を挙げていらっしゃったと思う。完全に記憶を咀嚼した状態で書いているので、全然正確じゃないです、すみません。
それを受けて清水晶子さんが『クライング・ゲーム』(92年)がまさに、その典型だと御返答をされていた。当時、このネタバレをしないことが「紳士協定」と呼ばれたりしていた。まだそういう時代だった。わたしもそういった行為が、マイノリティを見世物のように利用しているという認識が、当時は欠落していた。

以下、ネタバレは知りたくないという方は読まないほうがいいです。けれども、利用される人々の問題に関心のある方は、読んでもらったほうがいいと思う。




是枝監督はマイノリティや弱者の側に立った、尊敬すべき監督だと思っている。『怪物』の子供のセクシャリティが同性愛的であることを、最後の子どもたちだけの世界の章で明かすのも、彼らなりの悩みの象徴であり、順々に視点が変わって新たな世界が見えてくる本作においては、妥当だと思う。先生の知らないところで、クィアな気配のする子が虐められており、彼は父親からもそれを「病気」と言われる虐待を受けていて、大人に相談する期待をまったく抱いていないのもわかる。だから是枝監督の演出に問題はない。

宣伝が止めたのは、そういうテーマを扱った章だ。しかし「じつは同性愛者で」というギミックとして、宣伝はこのことを利用しない方が良いと思う。それがギミックになるということは、「普通じゃない」「意外だ」という先入観があってこそなので、現代においてはもはや前提とすべきではないか。それでも、絶対にクィアへの差別主義者はいる。その人々からの迫害や、抵抗しなければいけない時はくる。当事者の子どもにとって、それはつらい出来事だろう。だから宣伝は、「マイノリティであることの闘い」を強いられるとしても、十分ではないだろうか。

わたしはこの件に関してはセクシャリティも当事者とは言えないし、気持ちを察する能力が劣っている気がするので、当事者から「違う」と批判があるかもしれない。宣伝の方たちに対しては批判ではなく、提案だ。この文章が誰かを傷つけていなければ良いと思う。無意味だったら恥ずかしいので、正直に教えていただけたらありがたい。また、当事者の方にとって誤った表現があれば、ご教示いただきたい。

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