今日のおばあちゃん
「この世で誰が一番好きか」と聞かれたら、たぶん「そんなの決められないよ〜」と答えるし、たしかに「一番」なんてなかなか決められるものではない。ああ、でもやっぱり私は(おばあちゃんだな)と、心の一番奥底でこっそり答えると思う。
どうしてこんなに好きなのかはわからない。反抗期が激しく大体のものに一度はムカついてきた私だが、おばあちゃんに対しては生まれてから一度もムカついたことがない。たまにしか会えなかったからかもしれないし、叱るという役割を母が引き受けていてくれたからおばあちゃんが私を徹底的に甘やかすことができたのかもしれない。まあ理由はどうであれ、私はおばあちゃんが大好きなのだ。
今よりはもう少しだけ涼しかった記憶のある夏休み。駅伝と特番でテレビがつけっぱなしの部屋で過ごした年始め。たった数日間だとしても、おばあちゃんの住む狭い団地で寝泊まりできる日々が、好きだった。いつもお手製のおいなりさんときゅうりのぬか漬けを用意して待っていてくれて、ダイニング横の引き出しの一段にはいつもお菓子が入っていた。何を話したとか、一緒に何をしたとか、そういうことはあまり覚えていないけれど。とにかくおばあちゃんの家は落ち着いた。
そのおばあちゃんが認知症になったのは、もう10年くらい前のことだ。母から病気だと聞かされたとき、正直あまりピンとはこなかった。20代前半だった私は、なんとなく、いろんなことを忘れていくんだろうとだけ理解できた気がする。介護の仕事をしている母は、近い将来におばあちゃんがどうなるのかが嫌でも想像できたようでかなり取り乱していたけれど、私はただただ、「おばあちゃんがいつか私を忘れてしまう日がくる」というぼんやりとした恐怖におびえた。
おばあちゃんの認知症は確実に進んではいたけれど、驚くほどにゆっくりで、私たちにたっぷりと時間をくれたんだと思う。数年前、転んで骨折したことをきっかけに、ついに施設に入るまでは、叔父さんとふたりでずっとあの団地で暮らしていた。入居した施設は団地のすぐそばで、実はおばあちゃんがヘルパーとしてかつて働いていた場所でもあるらしい。私が住んでいる場所からは電車2本とバスを乗り継げば、1時間ちょっとで行ける。
施設の方針で、コロナ禍では長いことおばあちゃんに会えなかった。顔が見られるのは、窓越しに外から10分間だけ。今回、なんとなく、私の目の前に10分間だけ現れてくれるおばあちゃんを綴ってみようと思った。あるときは服のボタンを掛け違えていて、あるときはぬいぐるみを抱いて出てきたおばあちゃん。彼女から見える世界も、どう思っているのかも、今は聞いて書くことが難しい。だから、これは私の一方的な日記で、私から見える「今日のおばあちゃん」である。
「おばあちゃんがひとりでずっと家にいるから、たまに遊びに行ってあげて」
認知症になって少し経ったとき、家族内のLINEグループで呼びかけがあった。介護施設でヘルパーとして働いていたおばあちゃんは、認知症になってしばらくは仕事を続けていたけれど、たしか、転んで足を怪我したことをきっかけに、仕事をやめることになったのだ。一緒に暮らしている叔父さんは日中は仕事があるので、おばあちゃんがひとりで留守番になる。ずっとひとりでテレビを見ているのは心配だし、誰かが行けるときには交代で訪ねていこうという話になった。
当時、私はシフト制の仕事をしていて、平日休みが多かったので遊びに行くことにした。一緒におさんぽしたり、おしゃべりしたり、料理をしてあげられたらいいな、なんて思っていたような気がする。けれど、実際はあまり思ったようにはいかなかった。というのも、おばあちゃんの認知症が私の想像よりも進行していたからだ。
一緒にダイニングの椅子に座って、いろんな話をした気がする。でも、私が話した内容に即した返答があまり返ってこなかったり、気がつくと定期的に同じ話が繰り返されていた。私は当時、認知症の知識もなにもなく、何度も同じ話をされたときにどんな反応をすべきなのか、自分の話がどのくらいわかっているのか、そういうのが何もわからなくてこわかった。今までは好き勝手に話しても言葉が返ってきて、小さなわがままも叶えてくれたおばあちゃんはどこに行っちゃったんだろう。こわくなった私は、まるで腫れ物を触るようにおばあちゃんと接することしかできなくなってしまったような気がする。結局、おさんぽにも連れ出すことができなかった。
それ以降、仕事が忙しいとか、いろいろ理由をつけて、ひとりでおばあちゃんを訪ねることをしなかった。それを今、とても後悔している。
幼少期の私はおばあちゃんが好きすぎるゆえに、おばあちゃんの家から帰るときはいつも泣いていた。お泊まりから帰る前の日になると胸のところがサワサワと揺らぎ始めて(なんなら初日から帰る日を想像して寂しさを抱えながら毎晩眠っていた)、帰る日の朝におばあちゃんのおいなりさんを食べる頃には涙腺がゆるみ出す。ああ、いやだな。さみしいな。バス停で見送られるときには、もうしくしく、わんわん泣いていた。
電車のなか、母は「ちょっと、死んじゃったわけじゃないんだからさ……」と周りの目を気にしていたけれど、私は寂しくて寂しくて、すぐにでもまたおばあちゃんに会いたくてなかなか泣き止めなかった。年を重ねるにつれて、わんわん泣くことは減ったけれど、やっぱりいつも寂しさはあった。そんなときに振り返ると、おばあちゃんはバス停や団地のベランダからずっとずっと手を振っているのだった。
「気をつけてね、おばあちゃん祈ってるからね」
別れ際はいつも、手を握って必ずそう言う。おばあちゃんは、毎日必ず仏壇や神棚にお祈りをしている人で、いつも仏壇にいるおじいちゃんに私たちみんなの安全をお願いしているのだと言っていた。私もなんとなく、それで守られているような気がしていた。
今、私が家族を見送る側になっても、やっぱり「気をつけてね」と言ってしまうよなと、ふと思う。しかも、文字通りに「気をつけてほしい」というよりは、そこに言霊を込めると言うか、やっぱり祈りに近いものを感じる。やっぱり私は守られていたんだと思う。
おばあちゃんはよく鼻歌を歌っていた。ベッドのそばにはCDが聴けるコンポがあって、井上陽水から洋楽まで、お気に入りのCDが一緒に置いてあった。若い頃は、ラジオを聴きながら家事をして、カセットテープでいろいろな曲を録音していたらしい。そういえば、私が小さいときは一緒にカラオケにも行った。おばあちゃんは音楽が好きだったのだ。
私がよく覚えているのは東日本大震災のあと、チャリティーソングとして作られた「花は咲く」を本当にいつも歌っていたことだ。震災直後は常にテレビで流れていて、それを聴くたびにおばあちゃんは「いい曲ねえ」と口ずさんでいたし、ずいぶん時間が経ってからも時々鼻歌に登場した。
好きな人が好きな曲は、私も好き。みんなそうだろう。だから私もYoutubeでよく聴いて歌った。高低差があってなかなか難しいけれど、メロディラインが美しくて、やっぱり歌いたくなる曲だと思う。のちにこの曲は、娘や息子の子守唄になった。
コロナが落ち着いて、ようやく対面で会えるのだと聞かされても、私はなかなかおばあちゃんに会いに行けなかった。いや、行かなかった。「仕事が忙しい」とか「子どもの病院が」とか言いながら、先延ばしにしていたのである。同時に、早く行かなければという気持ちもあった。またいつコロナが流行して、面会ができなくなるかわからない。リスク管理をする施設側は、私の事情など待ってはくれない。そうなったら、もう次はいつおばあちゃんに触れられるかわからないのだ。
原稿に追われていたある日、「今日行こう」と思った。まず天気がいい。少し暑いくらいだけれど、雨のじめっとした日よりは断然外に出やすい。それでもやっぱり気乗りしなかった。準備を進めながら、「やっぱり原稿もあるし」とか「また週末行けば」などと言い訳がどんどん浮かぶ。大好きなはずのおばあちゃんに会いに行かない理由はなんなんだろう、と電車に揺られながら考えていた。
たぶん私は、こわかったのだ。
もう何年も2人きりで話していない。最後に一対一でおばあちゃんと話したのは、認知症になり始めた頃に家を訪ねていったときだ。あれから何年も経って、おばあちゃんの認知症は確実に進んで、私は歳を取っている。もう私のことはわからないし、思い出話もできない。一体何を話せばいいんだろう、30分も。認知症になったおばあちゃんに真っ向から向き合うことで、自分が傷つくのがこわかった。
誰か家族と行こうかなと逃げ出そうとする自分を奮い立たせたのは、このエッセイだった。ちゃんと今のおばあちゃんを残したいなら、みんなでワイワイしに行くだけではダメなのだ。ひとりでおばあちゃんと、自分の気持ちに向き合わなくてはならない。
施設に向かう道の途中、うちのおばあちゃんよりも年上だろうなあというおばあちゃんとすれ違った。どこかへ向かってひとりで町中を歩いているのを見る限り、きっと認知症ではないんだろうな。そう思ったら、なんだか突然悔しくなった。なんだよ、どうしてよりにもよっておばあちゃんの、よりにもよって記憶を持って行っちゃうんだ。ひどいひどい、返してほしいと心底思った。これだけ医療が発達しても、まだ記憶は取り戻せないのがもどかしかった。
そうして過ごした30分を経て、私の心はなぜか晴れていた。自分を覚えていないおばあちゃんを目の当たりにして、会話がうまく成り立たない体験をして、きっと打ちひしがれて悲しみと絶望を抱えて帰るんだろうと思っていたのに、にやにやしながらバスに乗っていたのである。
対面してみると、おばあちゃんは何も覚えていないけれど、ちゃんと目の前で生きていた。私は、おばあちゃんが“忘れていく”という事実ばかりにとらわれて、寂しくて悲しんで、過去の思い出にすがりたくなっていた。もうこれ以上忘れないで、どこにも行かないでと、おばあちゃんの時間が過ぎていくのを認められなかったんだ。本当の意味で「今日のおばあちゃん」を見ていなかったんじゃないか、と思わされた。
私たちは、進む時間のなかを生きている。おばあちゃんよりは覚えているけれど、私の記憶だってどんどん曖昧になっていく。おばあちゃんが忘れちゃうなら私は忘れたくないと思っていたけれど、今回の記事を書くにあたって、詳細を思い出せないことがたくさんあるとわかった。おばあちゃん、大丈夫。私も忘れちゃってるよ。けど、当時楽しかったこと、おばあちゃんを大好きだと思ったことは消えていないよ。
おばあちゃんが認知症だと聞かされた日、生まれて初めて詩をつくった。人間は感情が溢れて出ると自然に詩が出るのかあ……と自分ですごく驚いたのを覚えている。そうか、私は思い出を忘れてほしくなかったんじゃなくて、私がおばあちゃんを大好きだってことをちゃんと覚えてほしかったんだ。このエッセイを書きながら改めて詩を振り返ってみて、そう思った。それなら、今からでもいくらでも何度でも、伝え直せばいいじゃないか。
“Every day is a new day”と、アメリカの作家であるヘミングウェイは言ったという。本当にそうなんだ。毎日が、「今日」という新しい日の始まりで、みんな「はじめまして」から始まる。子どもの成長を見ていても同じ日なんてないように、やっぱり私たちは目の前の1日だけしか生きられない。だから、何もせずに過ごしても、うまくいかない日があっても、忘れてしまったとしても、とにかく今日を生きるだけでえらい。
私は、一生懸命に今を生きる、本当の意味での「今日のおばあちゃん」に会いたいと思った。また自己紹介から始まったとしても、おばあちゃんの部屋の換気扇になにが住んでいるのかわからなくてこわくても、やっぱりまた会いにいきたいと思う。
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