見出し画像

1年前、私は生き方の「答え」を求めて、ある学校に入った

この記事は、生き方を考える学校「暮らしのスコレ」のウェブサイトに掲載する体験記として執筆したものです。「暮らしのスコレ」については、記事の最後に掲載していますので、気になる方はぜひそちらもご覧ください。

2022年、私は2人目の育休を終えて仕事に復帰した。

ライターとして働き始めてすぐ、立て続けに2回の妊娠・出産を経験した私としては、「よーし、いよいよ子育てとキャリアの両立が本格的に始まるのだ……」と、意気込んで子どもたちを保育園に送り出したのを覚えている。

ところが。4歳児と1歳児を育てながら、自分のキャリアも育てていく、というのはなかなかの至難の業。世の中の多くの人は家庭と仕事の両立ができているはずなのに、私は数ヶ月であっという間にパニック状態になった。

仕事中には「子どもの靴下に名前を書かなきゃだった」とか「次の病院の予約はいつだっけ」とか考えていて集中できない。なのに、子どもと過ごしている最中には「あの人に連絡し忘れてたな」などと上の空だし、保育園から熱の呼び出しがあろうもんなら「げっ!締め切りがあるのに……!」と、子どもよりも先に原稿の心配がやってきた。そして、そんなふうになってしまう母親としての自分に罪悪感がいっぱいだった。

もちろん部屋だってぐっちゃぐちゃで、在宅勤務の私は部屋のなかを見ないようにしながら日々を過ごしていたように思う。実家にいるときからモノがあふれた部屋に住み、同じく物持ちの夫と結婚してから、どれだけ広い部屋に引っ越しても決して片づくことはなかった。「どうせ私は片づけができない」とどこかで諦めながらも、探し物が見つからずに苛立つ自分も、嫌いだった。

いくら頑張ってもまだ足りない。何を優先すればいいのかわからない。どうすれば私と家族は心地よく暮らせるんだろう。その「答え」が知りたくて、私はある人に泣きついたのだった。

わからない「自分らしさ」に、もがく

「まなさんは、どうしたいんでしょうね」

上に書いたような悩みを、全部ぶちまけた相手は友人の大浪優紀さん、通称うきちゃん。oltoという屋号で、片づけサポートや家開きの活動などをしている人だ。あるコミュニティで知り合ってから、うきちゃんの考え方に触れるたびに「あんなにきれいな部屋で、うきちゃんみたいに暮らせたらなあ」と思ってきた。

私がちょうどてんやわんやしているタイミングで、うきちゃんが「暮らしのスコレ」という大人のための学校を計画していることを知り、私はすぐにカウンセリングを申し込んだのだった。彼女なら、きっとなにかアドバイスをくれるはずだ、と。

うきちゃんは、私の話に水を刺さずにうんうんと聞いてくれた。そして、開口一番に問いかけたのだ。「あなたはどうしたいのか」と。

私は面食らった。だって、うきちゃんに「こうしたらいい」とアドバイスや答えをもらえるんじゃないかと期待していたのだ。だから逆に聞かれてしまって戸惑った。そしてもっと驚いたのは、その質問に答えられなかったことだ。

人生において、私は「自分のしたいこと」をずっと考えてきたつもりだった。仕事も結婚も、子どもを持つことだって、自分の決断でしてきたはず。自分らしく生きるために、悩みながらもたくさんの選択をしてきた。

ところが、うきちゃんに「どうしたいのか」と聞かれたとき、なんの答えも絞りだせなかったのだ。ふにゃふにゃと頭に浮かんでくる“自分らしさ”は、改めて問われてみると「世の中が求める大人や母親」に沿っているだけの、陳腐な言葉な気がした。

私が心の底から望んでいる暮らしってなんだろう。やさしくていい母親になること? 仕事で成功して稼ぐこと? インスタで見るような、きれいな部屋に住むこと? 最初のカウンセリングで出てこなかった答えを求めて、自分自身に向き合う「暮らしのスコレ」での旅路が始まった。

私の時間は、私の人生は、一体だれのもの?

「暮らしのスコレ」では、たくさんの対話がある。そのほとんどは自分との対話。家の片づけ、ジャーナリング、毎月のワークショップなどの活動を通して「自分はどう生きたいんだっけ?」というのを、自分自身に問い続けていく。

そして、希望者にはうきちゃんとの対話の時間もある。毎月1回、うきちゃんは「カウンセリング」の時間を準備してくれていて、1時間ほどオンラインで話す。もちろん片づけの相談をしてもいいし、なんでもないような雑談や愚痴から、気づけば深い話になっていたりもする。

「どうして、そう思ったんでしょう」

もやっとしたこと、苛立ってしまったこと、逆に嬉しかったこと。カウンセリングでうきちゃんにその理由を問われると、はて確かに「どうして私はそう感じたの?」と立ち止まることができる。

毎月毎月、私は揺らぐ。忙しい日々のなかで止まることなく泳ぎ続ける私の息継ぎのような、休憩所のような場所、それが毎月のカウンセリングだった。

それから「暮らしのスコレ」には、とにかく「あなたの好きなようにして大丈夫です」という空気感とカリキュラムの流れがある。

任意で参加できる「もくもく会」では、決まった時間にオンラインでつなぎながらそれぞれが活動する。その時間は、片づけをしてもいいし、仕事をしてもいいし、自分のために使ってもいい。うきちゃんは「じゃあこの時間は、みんなで片づけましょう」とか「ジャーナルを書く時間にしましょう」と言わず、「今日はみなさん何をするんですか?」と聞くだけだ。

そこでは何を選んでもジャッジされることはないし、別に詳細も話さなくていい。みんなで一緒に、ただ「自分の時間」を過ごす。そういえば、最後に「何をしてもいい時間」を意識的に持ったのはいつだろう。自分の時間はたしかに自分のものなのに、私はいつも「あれしなきゃ」「今のうちにやっておかなきゃ」と、周りの誰かのために時間を使っていたような気がする。それは、本当に「私の時間」と言えるのかしら。

なんだかすごく新鮮な気持ちになって、もくもく会の時は、お香を焚いたりお茶を入れてみたりする。仕事をするのも家事をするのもすべて私の選択なのだ、と噛み締めながらお茶をすする時間は、本当に私だけのものだった。

ひとりでは見つけにくい、出発点へ

片づけのカリキュラムにも、締め切りがあるようで、ない。一応、うきちゃんがカテゴリ分けしたものを順番に進めていくけれど、それを「せーの」で終わらせるようなことはない。とにかく「それぞれのペースで」「好きなように」進めていいように配慮されている。

なにかと「せーの」で進められてきた私たちの人生は、実はそれぞれのペースを無視した上で成り立っていたんじゃなかろうか、なんて、今までは考えたこともないところまで思いを馳せてみたりする。背の高さも、歩く速さも、食べるスピードも、本当はみんな同じわけないのに、なぜか私たちは「置いていかれないように」自分のペースをはみ出してでもがんばってしまうんだよなあ。

それから、モノを捨てるか捨てないか・収納の仕方についても「まなさんの家の間取りだと、使いやすさはどうでしょうか? ご家族はどうすれば使いやすいと思いますか?」と、逆に質問が返ってくる。どんなに古いモノでも、私たちが捨てたくないなら捨てなくていいし、使いやすいなら言われたとおりの収納にしなくてもいい。個人や家庭ごとの正解があるからこそ、決まった型にハメたところで機能しないことを、うきちゃんは知っているのだ。

答えのない状態を考え続けることは、けっこう苦しい。誰かに「あなたにはこれがいいよ」と教えてもらえたら簡単なのに。でも、それが本当の解決になるかはわからないのだと、私は徐々に気づき始めていた。だって、自分たちが本当に必要だと感じていることは、自分たちにしかわからないのだ。

でも、スコレでの学びは孤独ではない。うきちゃんは「私にはわからないよ」「自分で決めなさい」みたいな突き放すような感じではなくて、“問いかけ”の力で、私をまっさらな出発点に連れ戻す。

「それって本当に、まなさんが求めてるものですか?」

うきちゃんとの対話を通して、モノの整理を通して、少しずつ少しずつ、私は「自分たちの幸せ」について、言葉にしていったような気がする。

「私の生きる意味」を考え続ける営み

うきちゃんとの対話以外にも、自身を知るためのヒントが「暮らしのスコレ」のなかにはある。ワークショップや哲学対談もそう。

「哲学」と聞くと、どんなイメージが浮かぶだろう? きっと多くの人がそう感じるように、私も「哲学」ってなんだかよくわからない難しいものだと思っていた。あながち間違いではなくて、いまだに理解はしていない。ただ、ヨガ講師の千尋さんとうきちゃんが「ヨガ哲学」について語り合う小気味良いトークを聞いていると、どうやら「哲学」というものは、答えを知ることではなくて「考え続ける営み」のことを指すらしい。

考え続けること。スコレに入ってから、ずっとそればかりしている。

うきちゃんの思考のエッセンスを詰め込んだワークショップでも、さまざまな視点から自分の人生の目的を見つめ直して、自分自身のことや、まわりの人との関係を考える。

忙しい日々のなかで、「私の生きる意味とは?」なんて正直考える暇がない。それよりも今、目の前に広がる散らかった部屋や、原稿の締め切りや、子どものこぼした牛乳をどうにかするのが先だ。でも、うきちゃんのワークショップを受けると、実は逆だ、ということがわかる。「どう生きたいのか」を考えた先に、ようやく住む環境や仕事や、家族との関係をつくっていける。こうやって言葉にすると「そりゃそうだ」という感じなのだけれど、そんなことを考える時間もきっかけも、これまでの私にはなかった。

長いようで短い人生の目的を、改めて捉え直す。世間に褒められるかどうかや、周りの人との比較なんかはいったん全部置いておいて、私自身が本当に求めるもの。さまざまなワークを通して、自分の殻や呪いを解きながら、自分自身と対話していく。

西日のなかで、美しさを見た

この冬、スコレのメンバーが集まっての「サットサンガ」があった。聞き慣れないこの名称は、サンスクリット語で「真実のための集まり」を意味するそうで、スコレではオンラインやオフラインで、時々みんなで近況報告や対話をする。

普段はうきちゃんと1対1でのやりとりが中心なので、他の参加者はもくもく会やワークショップで顔を見かける程度だったけれど、この日のサットサンガではみんなで一緒にランチをして、千尋さんにヨガを教えてもらい、スコレに入ってからのそれぞれの暮らしを振り返った。

西日が差し込む部屋のなかで、ひとりずつ、まとまらない言葉を共有していく。スコレに入って、部屋を片づけて、自分が変わってきたこと。

でも、ぽろりと溢れるのはいい話ばかりじゃない。自分のなかにある「あるべき」に向き合う苦しさ、いまだに手放せない不安。むしろ話しながら涙するほどに、もがき続ける姿もあった。今日という日は、成果発表ではなくて、私たちの「現在」を立ち止まって共有する時だったのだ。

みんな、それぞれの人生を生きようと、どうにかその糸口をつかもうとがんばっている。彼女たちを見ていると、そもそも悩むこと・できないことは悪いことではないのかも、と思わされた。悩み、葛藤し、たまには前を向けないことすら受け入れながら、それでも考え続けるという営み。そういう人間らしさ、まさに「生きる」姿が、とても美しいと思った。

それは、うきちゃんを見ていても感じる。うきちゃんは自分の失敗談や葛藤をいつもさらけ出すと同時に、「私も完璧にできるわけじゃない」と言う。私には完璧に見えていたうきちゃんの生活も、実はさまざまな揺らぎのなかにあることを、私はスコレで知った。そして、その揺らぎにひとつずつ向き合う彼女もまた、とても美しいと感じる。

うきちゃんは「先生」ではない。「考えること」に卒業も終わりも、たぶんない。スコレは結局、なにか明確な、私に向けた「答え」をくれたわけではなかった。私の答えは私にしか見つけられないのだという、当たり前のようで忘れてしまう“気づき”をくれただけだ。

でも、その気づきさえあれば。落ち込む日もむしゃくしゃする日も、自分を責めたくなる夜も、どれだけ部屋が汚くなったって、私たちはきっと戻ってこられる。私らしく生きる、そのほんのスタートラインまでの道のりが「暮らしのスコレ」だったのかもしれないと、今この文章を書きながら改めて思う。



【暮らしのスコレ・ 2期生募集】

2024年4月から「暮らしのスコレ」の2期が始まります。1年間、「暮らし」まるごとすべてを使って、自分と向き合う時間。うきちゃんや他のメンバーとともに生き方について考えてみたいと思う方は、ぜひスコレのHPを覗いてみてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?