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『犬王』試写、だけど、映画の感想っていうか古川日出男論的な

試写を観てフェイスブックに脳裏に浮かんだことを書いていたら、四千字とか越えたのでとりあえず、noteに残しておきます。ほかのSNS(Twitterはもとより、Instagramでも)だとその文字数は無理なので。プラスでいろいろ付け足し。

家から数分の整骨院で股関節と肩甲骨を緩めてもらってから渋谷まで行き、そのまま青山と神宮、赤坂を通って市ヶ谷のSMEで湯浅政明監督『犬王』試写で鑑賞。
古川日出男さんが『平家物語』を現代語訳した後、南北朝~室町期に活躍した実在の能楽師・犬王をモデルにした小説『平家物語 犬王の巻』を書き上げた。それを原作としたアニメ映画がこの作品になっている。

古川さんは『平家物語』現代語訳が終わったあとに『平家物語 犬王の巻』を年内に書き上げてから、翌年2017年から招かれてアメリカのロサンゼルスにあるUCLAで日本文学の講義をしていた。その期間は三ヶ月だった。
僕は3月になる時に一週間ほど遊びに行き、UCLAで行われた詩人の管啓次郎さんの授業の発表会と一緒に行われた古川さんの朗読を観た。朗読したのは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)による『耳なし芳一』で、同時通訳で英語と中国語が生徒によってなされた。
バックのスクリーンには小林正樹監督『怪談』の「耳無芳一の話」が映し出されていた。しかし、この時の動画は誰も撮っていない。写真は数枚撮ったが、それは異空間とつながっているような時間だった。

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アメリカから帰国後に『平家物語 犬王の巻』は発売され、5月には高知県の五台山竹林寺で「平家物語諸行無常セッション」が古川さんとZAZEN BOYSの向井秀徳さん、サックス奏者の坂田明さんで行われた。

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という流れが2016年末の『平家物語』刊行後から2017年の『平家物語 犬王の巻』刊行の時期ぐらいまでにあった。


古川日出男作品に通じていると僕が思っているのは、「孤児と天皇における貴種流離譚」であり、今作の映画の原作となった小説はほかの作品よりもエンタメに向かっているように感じられる部分があるものだった。
湯浅監督が長編アニメーションミュージカルに、野木亜紀子さんが脚本を手掛け(主人公の琵琶法師・友魚と能楽師・犬王の関係性に小説よりもさらに焦点を絞っている、二人の距離感や信頼関係(あるいは共犯関係)は『MIU404』の志摩と伊吹に近いかも)、大友良英さんが音楽を手がけたことで、原作にあったエンタメ性が一気にライブ感とフェス感のある作品に昇華していた。

友魚(名を変え友一になり、さらに座をたちあげ友有になる。名前が変わる、呼称が変わるというのも実は古川作品の特徴である)と犬王が歌い踊り奏でて鳴らすそのライブ的なシーンはよほどひねくれている人でない限りはすごく楽しめると思います。IMAXとかの大画面で大音量でぜひ観てほしい。

個人的なことですが、ライブやフェスで演者が「クラップ・ユア・ハンズ」させたり、客に任せて歌わせるのは大嫌いです。
僕は超越的なものが観たいし聴きたいからライブに行っているのであって、ほかの客との一体感とか求めてない。観客の一体感って「人類補完計画」みたいな自分と他者の境界線が失われた世界みたいで気持ち悪い。それぞれが好きなように鳴っている音に反応して、響く声に従えばいい。それぞれがそれぞれの踊りと揺れに任せて舞えばいいと思う。
鳴ってるリズムに反応して勝手に踊って歌わせろよって思うから、「クラップ・ユア・ハンズ」とかで聴きたい演奏が阻害される(聴きにくくなる)のが嫌だし、お前(ボーカル)の歌が聴きたいんだよ、大事なところを客に任せるな、と思う人間です。

原作となった小説が最初に単行本で出た時に読んで感じたのは、この作品は手塚治虫『どろろ』に通じている部分がある(どちらも読めばそう思う人は多いと思う)ということ。僕らや上の世代なら大塚英志×田島昭宇『魍魎戦記MADARA』を思い浮かべるだろう。
そもそも『MADARA』は大塚さんが言っているように『どろろ』×三島由紀夫「豊饒の海」シリーズをかけあわせて作った漫画作品だった。
主人公の摩駝羅は父親である魔王弥勒によって(息子があまりに強大な力を秘めていたため自分の王座が奪われると恐れて)、生まれてきた赤子の体の八ヶ所を自分の臣下に与えた(そこには摩駝羅にすべてを奪われた双子の兄の影王も含まれていた)。故に摩駝羅はヒルコとなって流されて、拾われた地でギミックという装置をつけて成長する。やがてほんとうの自分の体を取り戻すために旅に出て魍鬼八大将軍を倒し、自分の本当の体を取り戻していく(まさに貴種流離譚の物語である)。
最終的に父である弥勒にすんでのところで時空の間に逃げられてしまう。摩駝羅と彼の庇護である麒麟は弥勒を追って現世からいなくなる。
摩駝羅の眷属である青のカオスと赤のユダヤは摩駝羅を追いかけて時空を超えて転生を繰り返し、最初に出会った摩駝羅を探すという物語だった。ほんとうの主人公は摩駝羅ではなく、ユダヤとカオスであり、それは「豊饒の海」シリーズにおける松枝清顕の親友だった本多繁邦の役割を担っていた。

主人公のひとり友魚は壇ノ浦で生まれ育ったが、ある日やってきた都の帝の従者に頼まれ、父と共に海に潜って「壇ノ浦の戦い」で幼き安徳天皇とともに沈んだ宝剣(三種の神器である草薙の剣)を海の底から掘り起こす。
海面で浮かぶ舟の上で二人の従者は平家蟹の甲羅を恐れ顔を背けている、父が鞘から剣を抜くと閃光が空間を切り裂き、父は即死、友魚はその目から血を流し最終的には光を失う。
目が見えなくなった友魚は自分達を不幸に巻き込んだもの(都のものや草薙の剣の場所を彼らに伝えた隠れ平家たち)に恨みをはらせと母に言われ、都に向かうことになる。
その途中、厳島神社で平家について語り歌う琵琶法師と出会う。共に全盲であるふたりは行動を共にするようになり琵琶を教えてもらいながら都を目指す。やがて都に着くと友魚は琵琶法師の一座に入れてもらうことができ、名を友一と変えて琵琶法師となる。

もうひとりの主人公の犬王は生まれた時に産婆や産みの母が目を背けるほどに醜く、あるべき場所にあるべきものがなかったりする体(呪われた子として)で生まれた。
父は都の近江猿楽の比叡座の頭領だったが、醜く生まれた我が子には稽古をせず(上の兄二人には稽古をつけている)、蔑みながら放置プレイに近い形にした。だが、犬王はなんとか生き延びる。
ここまでで『どろろ』や『MADARA』を知っていれば、物語の構造で考えれば、なぜ犬王がその姿形になったかはわかるだろう。そこは大きな問題ではない。世界中に散らばる英雄神話と通じるのは、それが物語の基本構造であり、王道だからだ。ゆえにエンターテイメントとなる。

そして、そんなふたりが出会い、彼らが拾っていった平家のまだ世には伝えられていない物語たちを、猿楽の能の歌と踊りと琵琶法師の奏でる音とリズムによって都に響かせ始める。
平家の亡霊たちを沈めるかのように。いや、物語とは魂を癒し、沈めるものである。過去、現在、未来すべての人たちの、あらゆる魂と呼応する、それが物語だ。

時は南北朝、つまり都はふたつあり帝はふたりいた。
一方には草薙の剣は欠け(違う宝剣を代わりにして)ているものの、残りのふたつはあった。だからこそ、我こそが正当な帝であるのだ、と。
しかし、一方にはなにもなかった。だからこそ、ほしい。ひとつでもほしい。失われた宝剣がほしい、と言う。
従者たちは探す、逃げて生き残った隠れ平家のものたちが同時に見てしまった夢から、草薙の剣の沈んだ場所を特定し、友魚親子に引き上げるように頼んだ。そして、友魚は父を失い、光を失うことになった。だから、そもそもの始まりは南北朝というふたつの朝廷とそのふたりの帝が発端だった。
そう、これは『平家物語』から繋がった物語だ。そして、古川作品に通底する「孤児と天皇における貴種流離譚」は軸として残っている。

友魚は孤児に近い存在であり、犬王もまた孤児に限りなく近い(ネグレクトされている)。しかし、彼は勢いのあった近江猿楽の比叡座の血を引くものだったからこそ、覗き見して稽古をしている兄たちが父に指導されている姿を見て覚える、勝手に覚える、禁止されているのに見よう見まねでマスターしていく。次第に能楽師として成長していくと醜い体の呪いはとかれていく。封じ込まれていたのはまさに「美」であり、人々を魅了する、それはもちろん天に届く。かつての天とは帝や将軍である。

「芸と政(まつりごと)」はきってもきれない関係にあり、犬王を能楽師(だが、彼の作ったとされる曲や歌は残っていない。歴史に名を残したのは世阿弥だった)としてめでて寵愛したのは誰だったか? 
足利幕府三代目、南北朝を統一しようとしていた足利義満だった。金閣寺を建立したのも足利三代将軍の義満だった。実際の「金閣寺放火事件」をモデルして三島由紀夫は『金閣寺』を書いた。そして、三島は『近代能楽集』も残している。
その三島をトリビュートした古川日出男による<小説><戯曲><評論>が一体化した中編小説のタイトルは『金閣』であり、その中編小説を読めば古川さんによる『平家物語』現代語訳から『犬王の巻』、そして、戯曲『ローマ帝国の三島由紀夫』まで繋がっているのがわかる。そう、三島由紀夫がそこには表出してくる。

矢野利裕著『今日よりもマシな明日 文学芸能論』を読んだ時の感想として「「芸人」はある時は神であり、同時にある時は生贄であるというその構造はずっと変わらない、河原から演芸場へ、そしてテレビになりユーチューブやネットに移り変わった。「笑いもの」にするという言葉があるように、優劣がどちらかに伸びているものを見て称賛し蔑む、そこにはもちろん差別的な構造がある」と書いたのだが、それを踏まえて「芸と政」と「孤児と天皇における貴種流離譚」について考えればなにが浮かぶだろう。

日本におけるもっとも「芸」的な存在は天皇であり、そもそも戸籍がないことは孤児を彷彿させる、また彼らの最初の歴史は神話でありフィクションである。そして、その存在が日本を日本たらしめていて、諸外国にはない唯一と言えるようなオリジナルでもある(同時に英雄神話的な共通点はあるが、国家システムとしてずっと成立しているため)。彼らの存在は尊ばれて同時に蔑まれているとも言える。それは「芸人」と通じてはいないか、との想像する。
民衆は天皇をかつては「神」だと思っていた。そして、第二次世界大戦が終わり、「神」は「人間」になった。
天皇とはそもそもシャーマンの系譜であり、五穀豊穣を祈る一族だ。だからこそ、人々から尊敬され、同時に恐れられていたはずだ。たとえば、雨乞いをして雨が降らなかったらどうなったのだろうか?

「芸」と「孤児」からの連想から浮かぶのは見るものからの「差別」、その意識。見られる存在、疎まれる存在、差別するものとされるもの、古川日出男作品における「孤児と天皇における貴種流離譚」から僕がつかむもの、見つけるのは三島由紀夫ではなく中上健次になる。古川日出男を通じて中上健次を再発見することが可能だった。そのことを思い出した。

『今日よりもマシな明日 文学芸能論』の感想として、「シャーマン的な要素というのは「芸」にとって太古から欠かせないものだった。そして、シャーマンがなにかに「憑依」されても、それを見たり聞いたりする視線(他人)がいなければ、それは世界に影響をなんら与えない。
言葉がなければ世界は存在しないが、それは他者という存在が前提でもある。「芸」とはかつては神への祈りであったが、やがて大衆的なものへ降りていった。「祭り」とはまさしく共同体を維持するための行事であり、シャーマン的な存在がいなくても成り立つ大衆化された「憑依」ごっことも言える。
現在ではたとえばそれがライブなどステージとそれを観るものだとすると、なにものでもない者がステージに上がればなにものかになってしまう。そしてそれを中心にして観客は祭りをたのしむ。ステージ上の「芸人」は神であり、同時に生贄である」とも書いた。

『犬王』では犬王と友魚たちは舞台で誰も聞いたことのない平家の話を歌い、見たこともない踊りを舞い、琵琶法師だけではなくほかの楽器も奏でる。舞台装置も派手に展開して民衆を虜にしてしまう。その意味で彼らもやはり「芸人」であり、祭り(ライブやフェス)を起こしていた。そして、それまで世に出ていなかった平家の話が巷に広まっていっていく。そうなれば、時の権力者がすることはただひとつ、現在にも通じることが起きる。
まさに「盛者必衰、諸行無常の響き」のように、それはいつの世にも起きる。
ただ、起きる。
その時、「芸人」はいかなる行為に出るのか、あるいは、あるいは。だからこそ、「芸と政」は歴史の中で互いに利用し利用され、寵愛し迫害する、繰り返される諸行無常。それがただ時の中で鳴り、鳴り、鳴る。

映画の感想というよりは原作者である古川日出男作品に通じることをずっと書いているが、根底にはそれがある物語だと思う。
湯浅監督によるアニメ的なアプローチと野木亜紀子脚本によるふたりを軸に据え、90分ほどのアニメーションミュージカルとしてしっかりとまとめられている。鳴り響く音楽は大友さんだなって笑っちゃうぐらいにギターが鳴っていた。

犬王の声は女王蜂のアヴちゃん、友魚は俳優の森山未來であり、その声とふたりに声優を任せたのは見事だと思う。
一度、女王蜂のライブを観たことがある。実際のアヴちゃんはアニメの犬王よりも犬王的な存在にも思える、また、森山未來がナンバーガールの無観客ライブで途中から乱入して踊ったのを観た。ふたりの身体性と犬王と友魚はしっかりと呼応していた。


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