原初が人の癒やしとなる考え

これまで核家族は、幾度と変化してきた。本来、人間は、集団によるコミュニティを形成していた。現代に至るまで、関連した変化しないものとしては、血縁関係があるだろう。苗字という概念に囚われ、一族という形式的な集団で我々は生活している。もとは数十の個体が群をなしていたが、それが次第に三世代またがるような構成へと変化してきた。古き良き核家族と呼ばれるのは、三世代がひとつ屋根の下に暮らす形式だと思う。戦後からはこの形式が薄れ、二世代程度まで縮小した。そして、現代に至っては、単身の世帯も存在することから、一世代よりは、一名でひとつ屋根の下生活する個体も増えている。
このような変化をたどってきた人の暮らしだが、個人的には一人という単数での世帯は非常に問題だと考えている。特に生活面では、家事などの雑務、生活を維持するための活動が仕事以外にも多く発生する。これを、二名以上で暮らすことで、分散できるため、一個体で生活を謳歌するより、非常に理想的な状況となる。
考えれば、わかる利点しか無いようなことだが、これにはいくつか問題がある。衛生面では、他者と共有することになるため、生理的に受け付けられない者と同じ空間では生活できないだろう。また、洗面台や風呂なども基本は一つの生活空間に一つずつしか無いため、誰がいつ使用するのか、議論が必要になり、緊急で用いたい場合には、相手と衝突する可能性もあるのだ。
そのため、人は、概ね恋仲になったものとひとつ屋根の下で暮らすことが多くなる。効率よりも精神面を強く意識している結果だろう。この精神面をどの程度妥協できるかというも、もしかしたら議論の余地があるかもしれないが、人によって、良し悪しや不快に感じるかどうかなど、様々な感覚があるため、議論するだけ、平行線をたどることになるかもしれない。
ただ、ここには、過程を壊さなければならない事がある。それが、同性との同居だ。多くの場合、恋仲となれば、男女であり、この男女がひとつ屋根の下に暮らし、高効率な生活を行うことになるかもしれない。ただこれは、精神的且つ信頼性のある相手であれば、異性か同性かは関係ないはずだ。昨今は性的な観点における婚姻をどの様に取り扱ということが世界的にも話題になっている。逆に、婚姻制度があろうとも、事実婚という形で、同居する男女も存在するし、恋仲でもない男女も同性することがある。これを考えれば、婚姻制度そのものに影響を受けた同居だけではないと言えるはずだ。単純なシェアハウスという概念ではなく、見知った仲であり、お互いに許せる間柄の場合成立するこの同居を高効率な同居、高同郷といってもいいだろう。何をいいたいかというと、結婚願望なるものは、人それぞれ代わりがあるだろうが、心許せる者とともに同じ住まいにいることができれば、精神的にも、雑務においても、高効率であるということだ。どのような生き方をしていたとしても、仕事をしていれば、税制から切り離されることはないだろう。そうであれば、金銭的にも効果のある、心許せるものとの同居は一考の価値があるだろうし、世間がこの様になっていないことについては、疑問に思う。
このように記述している私自身も一人屋根の下で暮らしているため、強い意見を言える立場ではないが、世間一般がそれを暗黙的に許さない雰囲気というのは、どうも気になる。恋愛や結婚願望の無い者たちが、中心となって、このような暮らしができれば、賃貸であろうが、広い部屋に済むことができるかもしれない。長所のほうが多いのではないだろうか。
私の目指す、完璧な状態はこれで終わらない。ここまで書いたのは、言ってしまえばただのルームシェアだ。ただ、ルームシェアをする相手については、心許せる相手であるか、という強い意志があるが。
より完璧な状態は、ここに恋仲の相手を追加することだ。母数の多い状態に合わせて表現すると、男女のペアが二組同じ屋根の下で暮らすということだ。これについては、議論の余地があるかもしれないが、最も理想的な組み合わせとしては、恋仲の男女の一組が、もう一組の同性の者と仲がいい状態だ。所謂、男友達と女友達同士になるということだ。同性同士は友達で、異性同士はそれぞれ恋仲ということになる。言い争いが起きても仲裁したりする人が身近にいることもそうだが、二世帯の世帯とほぼ同義になるため、戦後の家庭環境にも引き戻すことができる。よく恋仲の男女で話をきくところによると、相手の性別に関係なく、恋仲の相手が、自身の認知しない者と出かけることなど、人によって非常にストレスだということだ。つまるところ、束縛する人のことだ。男女に関係なく、一定数いるし、遭遇したことある人もいると思う。この場合、恋仲の相手と遊ぶ相手がそれぞれ一つ屋根の下にあるため、恋仲同士でもストレスは少なくなると考えられる。嫉妬深い者には逆効果かもしれないが、一つの環境に複数の人間がおり、相談のしやすさもふくめ、より原始的で、不安が少ない生活方法ではないだろうか。
この想像から、婚姻制度に加えて、相関制度なるものも作ってみるといいかもしれない。生命保険などでもあるが、本人が死亡した場合の相続先が婚約者や親などを対象にすることが多い。また、入院時の同席者も血縁関係が自明の者でしかうけつけてもらえないこともある。親もいつまでいるかもわからないし、決まった友人であれば、大きな問題がなければ、相関制度なるものを作り、婚姻制度とは別に、つながりを示す物があってもいいかもしれない。昨今未婚や子を成さなかった者が死後、土地や所有物に関して、自治体も処理しにくかったり、処理するのに時間を要することがある。こういった問題にもある程度解決できる余地がこの制度でできるかもしれない。
また、先述の通り、事実婚のように、法律婚をしていない者もいる。こういった場合にも、婚姻関係ではないものの互いに補うような相関制度があれば、相続や権利問題が片付くように思える。更に男女に限定せず、これらの関係性を法的に示すことができるため、同性婚に近い形も容易になるだろう。個人的には、法律婚のメリットが税のみになるため、状況によっては、今後法律婚がが減少し、事実婚が増加することもあるかもしれない。特にマッチングサービスの普及により、一人で出産と育児をする人も増えるかもしれない。そのようなときに結婚ではなく、信頼する選別を問わない友人を法的に定める相関制度があれば、生活も育児も不安がなくなるかもしれない。
話が大きく脱線してしまったが、私は信頼し合う二名以上で同居することによる法的なや税的なメリットを拡大することができれば、生活そのものが豊かになり、精神面では自殺者の減少や精神疾患の減少も叶うのではないかと思う。原点としては、一人で暮らすことによる問題があるが、一人でしか暮らしたくない人もいる。ただどのような者でも、ある日いきなり心を壊したり、強い不安にかられることもあると思う。そうなると、身近に対話のできる人がいると、多くの人を救えるかもしれない。
言うは易しな内容ではあるが、人類の共同体としての本質をより原初に近い形にしなければ、今後の少子化や自殺者、精神的に健全な状態などは、回復出来ないのではないだろうかと考える。
余談になるが、私は、このような状況を実現するためには、全人類がバイセクシャル性を獲得する必要があるのではないかと考えている。

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